正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

国家を益し兵士を利す  (第98回)

 前々回に書き留めた内藤鳴雪先生の句、「君行かば山海関の梅開く」は、ただ単に名所を織り込んだものではなく、子規が従軍した近衛師団が、ここに行く予定という噂があったからだ。後日触れるが、この噂のことは子規自身が「従軍紀事」に書き残している。

 私の荒っぽい理解によれば、山海関は中華と北狄の境に、米国大統領が建てようとしている壁のごとく据え付けられた万里の長城にある軍事拠点で、日露戦争は、この外側にある大連、遼陽、奉天などが戦場になった。後に関所の東側にある地に日本軍が居座って関東軍と名乗り、満州事変でも紛争地になった。


 そういう勇ましい絵を脳裏に描いて、子規は旅立ったことだろう。その結果がこうだったと堪えきれないかのように書いたのが、この「従軍紀事」だ。時系列的にはその続きである「病」は、数年後に彼の病が重篤になってから発表されているが、「従軍紀事」のころは、まだ身体が動いている。

 口も頭も充分達者で、「従軍紀事」の冒頭は、次のような意気軒高たる文章から始まっている。ここでの彼は徹底して新聞記者であり、もう学生ではなく、まだ文学一筋でもない。

 「国あり新聞なかるべからず。戦あり新聞記者なかるべからず。軍中新聞記者を入るるは一、二新聞のためにあらずして天下国家のためなり兵卒将校のためなり。新聞記者にして已に国家を益し兵士を利す。乃ちこれを待遇するにまた相当の礼を以てすべきや論を竢たず。」 (「従軍紀事」緒言)


 こんにちも他国でも、国家と新聞は仲が悪い。仲良くなればなったで一大事であることを日本人は良く知っている。その騒動が、早くも近代戦しょっぱなの日進戦争で始まっており、その前線に正岡記者がいる。

 彼にとって、彼の時代にとって、戦争は絶対的な悪ではない。犯罪ではない。隠しだても、いけない。国があれば戦があり、そのいずれの事業にも新聞記者が立ち会わなければならず、報道は天下国家と兵卒将校に利益をもたらす存在である。したがって、それ相応の礼節を以て遇せと言っていますね、これは。


 これが若きジャーナリスト、正岡常規氏の理念であり主張であった。ここまで書けばお分かりいただけるが、現実はそうではなかった。子規も単純に応接がなっていないと拗ねているのではない。戦場の状況によって衣食住の有り様に、現実的な違いが出るのは当然だと書く。

 しかし、子規ら新聞記者が受けた待遇は、他の軍の記者らと比較し、そういう已むを得ざる事情で生じた結果ではなく、「侮辱」であった。新聞屋と呼ばれ、記者は犬猫と言われ、でも寄宿する弱い立場で反論も出来ない。


 最初の章にある「今は理論の上において官民に等差を附せずしかも事実の上においてなほ官尊民卑の余風を存す」という一文は、国民国家の成立が理論先行で、実践が追い付いていないという告発である。

 そして「これを発表せんことを政府に希望する者なり」と執筆の動機を示す。しかし、政府は聞く耳を持たなかった。「坂の上の雲」では、日露戦争時でさえ従軍記者の扱いは酷く、国際問題までになった。むしろ、子規は早めに登場したがゆえに、幸徳秋水のような目に遭わずに済んだのだ。


 さて、第一章「緒言」は明治二十九年一月に連載開始という日付があるが、実際に子規が執筆したのは、前年の末だろう。第二章「海城丸船中」の始まりに、「昨年四月十日」に出発したとあるのは、明治二十七年(1895年)の4月10日だ。

 

この「海城丸」は日本郵船の商船で、仮装砲艦として徴用されている。このころ既に、威海衛の戦いも終わり、休戦条約が締結されて、清国との和平協定にむけた講和の話が進んでいることは「坂の上の雲」に出ているし、戦争が至って日本の優位に進んでいることは、子規が虚子や碧梧桐に渡した手紙にも書いてある。


 だからこそ焦っていたのだろうが、楽天家にしてみれば、今こそ従軍し現地を踏めば、世界最強国たる日本の軍隊の堂々たる姿を実見できるはずだと大いに期待したに相違ない。

 新聞記者ご一行は、画師・神官・僧侶・通訳官らと共に、一団で船上の人となり、「昨年四月十日近衛師団司令部と共に海城丸に乗り込み宇品を出発」した。宇品はその前年の10月に、秋山好古の騎兵隊が出発した港でもある。そのとき一緒に行けたらよかったのだが...。





(おわり)







根岸 善性寺の梅 (2017年2月19日撮影)

































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