正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

プロフェッショナリズム  (第99回)

 前回の補足から始めます。子規が「新聞記者にして已に国家を益し兵士を利す」にも拘わらず、官尊民卑の侮辱に遭ったと書いていることについて、そのあとに、別の表現でこういう風にも言っている。

 軍功を記して天下に表彰する従軍記者が将校下士の前に頓首して食を乞ひ茶を乞ひただその怒気に触れんことを恐るるが如き事実の明治の今日に存せんとは誰も予想外なりしなるべし。


 彼が主張する従軍記者の国家的使命とは、それが全てかどうかはともかく、ここでは「軍功を記して天下に表彰する」ことである。ただし、先の大戦時のように大本営発表を伝言するだけでは駄目だから従軍する意味がある。

 しかし、現実には衣食住にひどく不便し、怒鳴られながら物乞いのようなことをする羽目になった。詳しくは本文をご覧いただきたいが、記者らの面倒をみるはずの曹長からは「馬鹿野郎」「出て行け」と怒鳴られ、記者たちは「親にもこんな叱られ方をしたことがない」と憤慨する。

 その上司の管理部長に掛け合いに行ったのだが、「君らは無位無官ぢやないか」「無位無官の者なら一兵卒同様に取扱はれても仕方がない」と言い放たれて、子規は途中で帰国する決意をするに至る。


 少し書き添えた方が良さそうだ。子規は武士の子として育てられた様子が「坂の上の雲」に出ているが、彼自身は特権意識や、尊大な態度で他者に対するような人ではなかったはずだ。

 人の好き嫌いは少なからずあったようなのだが、舌鋒が鋭い割に、人当たりは穏やかであったと(たぶん気に入った相手にだろうが)、多くの人が書き残している。だから、もっと厚遇せいと不平を鳴らしているのではない。それに「侮辱」の件は、他の記者たちの反応も同様だったと子規は何度も書いているのだ。


 では、なぜ帰国後に何か月もして、こんなに腹を立てて告発しているのかというと、その点は彼の言葉を借りよう。「従軍紀事」の最後のほうは、こういう風に結んでいる。適宜、句読点のみ入れます。

 しかれば、則ちわれらをして、冷遇を受けしめし者は何ぞ。曰く、半ば人為なりとするも、半ば偶然のみ。人為の不都合は、自ら責任の帰する所あり。法律縦ひこれを罰するを得ざるも、道徳はこれを罰するを得べし。偶然の結果を来たせし者は何ぞ。曰く、新聞記者の待遇一定せざるがためのみ、新聞記者の待遇一定せざるがためのみ。


 原因の半分は「偶然」であり、もう半分は「人為」だという。後者の人為については、官(軍人)も官だが、新聞記者側にも問題があり、それは「道徳」の観点から律すべきことで、社会では避けられない問題と解決であろう。

 前者の「偶然」とは、各従軍記者が、どの軍隊に配置されて、どのような相手に接したかというのは、記者が選んだことではない。人間関係だけならば運不運もあるだろうが、子規が問題視しているのは繰り返し書いていることからも分かるように、「新聞記者の待遇一定せざるがためのみ」。

 すなわち軍隊の組織として、従軍記者の待遇に基準も規則もないため、現場の偶然で精神的に酷い目に遭うとは、看過できない不公正だということだ。子規らは勝手についてきたのではない。陸軍に履歴書を出して公式に参加しているのだ。それなのに、いわく「犬猫」と同じ扱いだった。


 先述の管理部長の発言にある「無位無官の者なら一兵卒同様に取扱はれても仕方がない」についても、言い添えておきたい。記者が無位無官なのは当然である。問題は「一兵卒同様」だが、子規は「一兵卒」を小馬鹿にして、これに憤慨していると考えたら短絡的に過ぎる。

 兵卒は、高級軍人(管理部長は佐官らしい)からみれば、現代風にいうと「平社員」であり、すなわち指揮命令下の末端にある。特に軍隊は、古今東西、上下関係が厳しいから、無位無官と一兵卒と犬猫(ペットではなくて、ネズミを採ったり番をしたりする家畜のことです)は、同じようなものなのだ。


 これが子規の職業意識をひどく傷つけた。自らの仕事について持つ誇りというものは、自分一人で容易に作り上げることができるものではなく、かといって誰かにもらえるものでもない。

 「坂の上の雲」に登場する人物の大半は、黒船前の古い時代から、近代への橋渡しの世代だ。子規や真之や広瀬は、武士階級の教育や気風を受け継いだ最後の年代であろうし、一方、司馬さんの表現を借りれば「知識者層」として、まことに小さな国の開花期を担う責任感と勢いで生きている。


 すでに二回は喀血し、上司を拝み倒してまで従軍した子規だったが、「軍功」はそれが目の前でなされるには遅すぎる時期になってしまい、それに換えて味合ったのは、相も変らぬ人間組織の腐臭だった。

 あまり賛成してくれる人は多くなさそうだが、これまでの子規はまだ書生に毛の生えたようなものだったのではないかと思う。おそらく、この従軍と病状の急変により、彼はきっと「末は博士か大臣か」だけが、人生の充実度の尺度ではないことを体得したはずだ。

 今回はどうにも抽象的なことばかり書いて終わってしまう。次回は、せっかくの機会だから子規が従軍でどこに行ったのか、足跡を追おう。なお、彼には同時期を舞台にした「陣中日記」という作品もあるそうだが、高価な全集に収録されているだけのようで、今回は残念ながら未見のそちらには触れない。




(おわり)





 
一輪挿し (2017年2月28日撮影)






































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