正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

ほうかん  (第100回)

 帝国陸海軍は、日露戦争の時期においてさえ、外国観戦武官の処遇をないがしろにして不当な報道をされ、国債の売れ行きに支障が出たという話が、「坂の上の雲」文庫本第四巻の「遼陽」に出てくる。観戦武官の中には、「われわれは豚のようにあつかわれた」という者も出たらしい。

 あいにく子規は儀礼が必要な外国人でもないし、プロ同士の交流が慣行だった時代の武官でもないし、そもそも未だに私はその事情がよく分からないのだが、実質的に戦争の決着がついている段階で、別に勇ましい記事を書いてもらう必要もないときに従軍を認められた。


 もっとも各戦史によれば、和平交渉は進めつつも、日本は大勝利を決定的にすべく直隷(大雑把にいえば、今の日本でいう東京近辺)で決戦を企てていたともあるし(山海関の句は、伊達では無かったか)、現実には「坂の上の雲」に出てこないが、それに替えて台湾に出兵している。

 ちなみに、明治の新聞記事のダイジェスト版に、正岡子規の「陣中日記」を見つけた。鳴雪先生の句も載っています。


 いろいろ要因が重なってのことだと思うが、冷遇されたうえに、記者団ごと師団ごとに対応の差があり、あいにく子規らは悪い方に配属されてしまった。この従軍の帰り旅は、彼の喀血で有名だが、一方、往路は「従軍紀事」にわずかばかりの記載がある。

 船中いきなり他の兵卒と一緒に、鬼軍曹に叱られて、軍律に慣れていない記者団は右往左往することになる。さっそく初日の夜から、「夢おだやかならず」と幸先が宜しくない。彼は生まれ育ちからして、怒鳴られるのに慣れていないだろう。


 だが武家の出身であり、漢学の教育を受けており、最高学府を出ており(中退ですが)、当時は知識者階級の代表格(つまり、インテリ)であったに相違ない新聞記者である。加えて当人の気性は、漱石の観察によると、大将でなければ気が済まない。これで頭ごなしに顎の先で、こきつかわれて大人しくしている男ではなかった。

 相手は天下の近衛師団である。陸軍軍人の出世街道だ。1895年、「四月十日近衛師団司令部と共に海城丸に乗り込み宇品を出発したり。」と冒頭にはっきり書いている。これは文筆家の宣戦布告のようなものだろう。近衛師団に与ふる書である。


 例によって写実的に細かく文句を言っている。一文を引用する(以下、引用文には句読点を適宜入れます)。さすがとしか言いようがないが、すでに批判の対象が食い物だ。メニュー、分量、食器にいたるまで、事細かに報告している。

 小石の如き飯はあり余れども、三椀と喰ふに堪えず。菜は味噌、梅干、佃煮の如き者一種にて、それさへ十人の食に足らず。昼飯には牛肉少しばかりを得ることあれど、もし飯時に少し後れて室に帰れば、残る所の者はただ飯あるのみ。茶さへもやうやう滴したたるばかりに飲み尽しぬ。茶碗と箸とは一つづつ借り受けたるのみにて洗ふ事もなく、殊に食事のたびに茶を飲み得ぬ事多かれば、茶碗も箸もきたなき物がりがりと附きて不愉快言はんかたなし。


 食い物の恨みから始まった船旅に、この従軍の敵役ともいうべき「髯のむさくるしき一人の曹長」が登場する。記者団が広い場所を占めているのがお気に召さず、ヒゲ曹長は「牛頭馬頭の鬼どもが餓鬼を叱るもかくやらんとばかりに」詰めろ詰めろと追い立てて来た。

 寝床も荷物置き場も窮屈になって、第二夜は「ろくろくに夢さへ結ばず。」となるまでに、環境が悪化した。ところが、道中ふと気が付くと、当初は自分たちと同格で同行していたはずの「神官僧侶」たちの姿が消えている。仲間の一人が、将校に問いただすと、こういう返事であった。

 「それは君がわるいのサ、あれは有名なお太鼓サ、我ら仲間で名をいふ者はなくて皆太鼓太鼓と呼ぶ位ぢや、坊さんなんぞは敲きやうがうまいから徳をしたのだ、君らは敲かぬからわるいのだ」と言ひながらからからと笑ひぬ。それより我ら仲間にても太鼓といふ言葉は流行し始めたり。

 
 聖職者でありながら、軍人に上手く取り入って好待遇を得たらしい。坊さんはたたくのが上手いというのは木魚のことだろう。なかなか即答にしては上出来だと思う。それにしても、子規は覚えているだろうか。

 入学試験の英語のテストの件である。彼は英単語「judicature」を知らなかった。カンニングの結果、意味は「ほうかん」だという情報を得たが、すでに寄席に通っていたのだろうか、太鼓持ちの「幇間」と書いて、生き恥を後世にまでさらしている。


 食事と就寝の不便だけではなかった。ようやく大連湾に入ったものの、なぜか一日二日は上陸許可が出ず、三尺の天井の下に、留め置かれたままだった。4月15日、やっとで桟橋のある柳樹屯に上陸し「直ちに金州に入る」。金州、日清日露の戦場。

 ここで子規たちは、同じころ日本を出発した第四師団の従軍記者たちから、待遇は良くなかったが「飯櫃を抱えて船の飯焚に叱られるほど」ひどくはないという話を聞いた。


 さらに金州では一泊二日ながら、「第二軍司令部附新聞記者の宿舎に一泊す。同司令部の新聞記者を優待すること将校に異ならず、しかも普通の将校に比すれば、かへつて、多少の自由を有する所なきにあらず」という厚遇であった。不公平である上に、自分たちが底辺にいる。これは、きつい。

 第二軍の司令は、大山巌である。その配下の第一師団には、独眼竜の山地と、青年将校秋山好古がいるのだが、講和条約は子規上陸の二日後に締結されているので、実戦部隊はそろそろ帰り支度を始めんとする頃合いだったのではないか。しかし、子規の苦労は序の口だった。




(おわり)




ささやかながら梅一輪 (2017年3月10日)







































.