正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

一本のろうそく  (第102回)

 旅順から金州に戻った後の出来事は、やはり「青空文庫 従軍紀事」で読むのがいいので、詳しく転記するのはやめます。ルビもあるし、百年以上前の文章にしては読みやすい。司馬遼太郎ほか少なからずの人が、子規の散文も言文一致の運動に一役買ったという指摘は正鵠を射ていると思う。

 感想文なので印象に残ったところを書こう。その前に、前回の話題、小松宮彰仁親王の像です。上野公園を通り抜ける用事があったので撮って来た。像の案内図には日清戦争時に短期間ながら、謂わば大本営の現地代理店長になったことは書かれていない。出征はご本人のご意向とは思えないが。赤十字の活動に尽力なさったことが記されている。


 子規の不思議なところは、自分自身に対する不利益取扱よりも、留守中に金州に居残った同僚記者たちが、さらに冷淡な待遇を受けたことに、「思わず涙ぐみたり」というほどの衝撃を受けていることだ。

 彼が旅順に行っている間、近衛師団の従軍記者はついに官舎も与えられず、自分たちで手配し、そこも事情があって追い出された。さらに子規たちを怒らせたのは、ヒゲの曹長に記者らが「馬鹿野郎」と、つまらんことで怒鳴られたことだった。

 この会話を交わした後の子規たちの心象風景は、彼の文章にしては稀有と言っていいほどの不気味な描写が、ただ一行、残されている。「しばらくは話とぎれて、一本の蝋燭は、暗き室の内に気味悪き光を放ちぬ」。


 「待ち給へ、今夜何とか、かたをつけるから」と子規は言った。曹長相手ではらちがあかないとみたか、子規はその上司であろう管理部長のもとへ陳情に出かけた。子規の申し出は、衣食住の待遇そのものに対する不平ではなく、「礼を失している」、「失敬」、「軽蔑」といった矜持に関わるものだ。

 子規にとって、新聞記者の仕事は、生涯の生業であったが、天職とは言い難い。どこで読んだか忘れたが、後年、新聞日本よりも「ホトトギス」への投稿が多くなり、子規は陸社長に詫びている。陸翁は例によって寛大であった。

 他方、新聞記者の職は、彼の母方の伯父、大原恒忠と陸羯南の友情の賜物であり、墓碑にまでそのことを書き、給料の多寡などは問題ではなかった。そのために病もなんのその、従軍したのだ。それなのに、「わが職務はわれをして滞留せしめざるなり。」という目に遭っている。


 管理部長は曹長について、あんな奴は相手にするなというだけで、管理責任を果たそうとしない。さらに、子規が文章に強調の傍点を打っているように、神官僧侶(太鼓ともいう)との待遇差を指摘したとき、管理部長の放った一言が、子規ほか何名かに早期帰国を決断させた。

 いわく、神官僧侶には相応の位というものがあろうが、「君らは無位無官ぢやないか。無位無官の者なら、一兵卒同様に取扱はれても仕方がない」。正直言うと、最初にこの部分を読んだときは、その子規も一兵卒を下に見ているのかと思いました。


 しかし、考え直して、今はそうは思わない。一兵卒は営業部長やヒゲ曹長の部下であり、軍隊組織に正式に編入されている最下位の職層だ。厳しい指揮命令や訓練を受けつつ、顎の先でこき使われるのが古今の軍隊の実態だろう。

 だが従軍記者は違う。武器も与えられず戦闘訓練も受けずに戦場に赴くのも、国のため兵のためだと勇んでやってきた。仮の宿の世話になっても(それすら酷かったが)、部長や曹長のご厚意でもボランティアでもなく、彼らは彼らの立場なりに国の事業に貢献すべく税金で来ているのだ。


 帰国すると子規は宣言した。途端に、参謀やら部長やらの態度が手のひらを返したようになり、何とか遺留を試みたようだが、もとより子規はこういうときこそ頑固なお人である。憲兵の呼び出しを食らってもいる。しかし、もう決意は変わらない。

 約一か月の滞在のみで、5月15日、子規は御用船「佐渡国丸」に載って帰国の途についた。この復路およびその後の顛末は「病」に詳しい。「従軍紀事」本文の最後は、この冷遇が「新聞記者の待遇一定せざるがためのみ。」であることを繰り返して結びとしている。


 もっとも、その後に「附記」と題された追加の一段落がある。
近衛師団は気の毒にも、山海関に向はずして台湾に向ひ、苦戦に日を送りしかども、新聞記者はろくにこれを記さず、世人はかへつて師団を誹るに至りぬ。かつや恐れ多けれども、師団長殿下を始め奉り旅団長参謀佐官を失ふに至りては、天の近衛に殃いする所以の者を怪まずんばあらず。その代りには生き残られたる人は、幸多き中にも例の部長殿は功四級にまでならせたまひぬとや。あなめでたや。


 皮肉の一つも言わずにはいられなかったらしい。天罰のごときものが幾つか加わった。台湾で現地の人たちの武力蜂起があり、近衛師団はその鎮圧に派遣されることになった。いったん敵に回した従軍記者一同は容赦なかったようで、奮戦むなしくろくに報道してもらえず、世論の反発をくらったらしい。

 そして台湾では、師団長(交代して新団長になっている)ほか幹部を何人か失った。師団長はマラリアで亡くなったようなのだが、彼は冒頭の騎馬像になっている小松宮彰仁親王の実の弟だった。ここでブログは「従軍紀事」から離れて、子規の住む根岸近隣で起きた出来事に向かいます。




(おわり)




参宮橋の春 (2017年4月12日)

明治神宮にお参りする道に橋があったらしい。小田急線の駅がある。明治神宮と代々木公園は隣り合わせで、この公園はかつて陸軍(主に航空機)の練兵場だったそうな。









































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