正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

道灌山再掲  (第103回)

 これからしばらく、近所の話が続きます。うちの近所とは、地名でいうと根岸、上野、谷中、日暮里など。行政区画でいうと東京都の台東区荒川区。信号機に捕まらなければ、うちから子規庵まで5分とかからないし、「坂の上の雲」に登場する地名・人名の所縁にも事欠かない。

 まずは去年、JR日暮里駅前で撮影した写真から。これだけでは誰だか分かりにくいが、説明書きによると江戸城を構築した太田道灌の像です。かつて一度話題にした子規の随筆「道灌山」を、もう一辺、引用するにあたりご登場願った。

 もっとも道灌山の名の由来は、太田道灌だけではなくて諸説ある。また、この小さな山は荒川区西日暮里に実在し、一説には江戸城が千代田城とも呼ばれていた古い時代に、この山にその出城があったともいう。確かに見晴らしがよく、子規は日本一の絶景と断定している。筑波山が見えたのだ。


 さて、「道灌山」は、新聞「日本」に掲載された記事である。司馬遼太郎は、あまりこの辺りの土地鑑がなかったせいか、子規は書くことが無くなると近所を出歩いては見聞録で紙面を埋めていたというような趣旨のことを「坂の上の雲」にも書いているが、私にとっては貴重な明治初期の地誌なのである。

 この「道灌山」という短い紀行文に、「御陰田」という言葉が、場所の名前として出てくる。「御陰殿」なら徳川時代の根岸にあった。彰義隊の戦いで焼失し、今は跡地の標が残るのみだ。 


 誤字ではないはずだ。なぜなら、子規庵からすぐそばで、しかも一本道に近い。そのうえ、「道灌山」の文中二か所に「御陰田」と出てくるから、書き間違いではない。「殿」は大仏殿の殿で、立派な建物のことだから、田んぼと勘違いするはずもなく、意味不明のままです。

 御陰殿の字面から想像できるように、やんごとなきお方が住んでいらした別荘のようなものである。そして、地元関係の資料をみると、この御陰殿の北側一帯(今の荒川区あたり)は、その貴人や先輩が働いていた上野の寛永寺の所領であるから、食糧用の田畑があってもおかしくはないが...。


 その貴族とは、東叡山の山主として寛永寺が代々、皇室からお招きしていた天台宗の「管領」で、要するに宮様が徳川菩提寺のトップだった。しかも日光の輪王寺の代表者も兼ね、かつて比叡山延暦寺の山主を兼任した時代もあったというから、別荘の一つぐらいあってもいい。寛永寺のサイトを貼ります。
http://kaneiji.jp/history/

 肩書は輪王寺宮(りんのうじのみや)。その最後のお一人が、前回までに「征清大都督」としてお名前を挙げた小松宮彰仁親王(上野公園の銅像参照)の実の弟、北白川宮能久親王です。きたしらかわのみや よしひさしんのう。「従軍紀事」の附記に出てきたとおり、台湾で病没した近衛師団長。国葬


 子規は、新聞記者だったし、病気で身動きできなくなってからは新聞雑誌を読むだけだと本人も書いていて、けっこう時事の話題が、その雑文に出てくる。しかし、なぜか皇室や宮家に関係する話題は少ない。従軍を熱望したほどの愛国者なのだが、政治的な人間ではない。

 輪王寺宮の話題も、上記「従軍紀事」の附記以外、今のところ一度も読んだことがない。その例外記事も「畏れ多けれども」「奉り」と、皇室を連想し得る敬語を使ってはいるが、固有名詞はなく師団長という職位が書かれているだけだ。

 時期的にはちょうど入れ違いながら、同じ根岸に住み、同じ戦争に行き、近衛師団という繋がりもあるのに不思議である。さて、以後、話題はあちこちに跳ぶだろうが、基本的には宮様の足跡をたどりつつ、「坂の上の雲」の登場人物を眺めることにいたします。




(おわり)




道灌とくれば「山吹」。子規もこの花が好きだった。
(2017年4月15日、上野にて撮影)




こちらは、シロヤマブキ。けっこう近所に多い。
(2017年4月16日、根岸にて撮影)
































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