正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

彰義隊  (第106回)

 うちの近所に徳川慶喜が引っ越してきたのは、後に明治元年と年号が改まる慶応四年のことだった。近所の話題が続きますが、あと二回の予定です。以下の大半は、吉村昭著「彰義隊」に拠る。彼の最後の歴史長編である。吉村さんも近所の東日暮里で生まれ育った。

 前年の慶応三年、第十五代将軍は大政奉還し、王政復古の大号令が出た。この年に幸田露伴夏目漱石正岡子規が生まれている。年が明けて戊辰戦争が始まり、慶喜さんは大坂城を捨てて逃げた。遁走の理由は諸説あるが、とにかく疲れていたことだけは間違いない。


 こちらまで逃げて最初は江戸城に入った。しかし、東征大都督の有栖川宮熾仁親王を奉る参謀西郷隆盛らが東海道を進軍してくる。城砦にいて恭順の度が足りないとみられては困る。困ったときは仏様に頼む。

 慶喜寛永寺に蟄居しようと考えた。このときすでに寛永寺輪王寺宮は、最後の宮となる後の北白川宮能久親王、すなわち子規が「従軍紀事」の最後に書いたとおり台湾で亡くなる近衛師団長で、御年二十二歳の若さだった。宮は受け入れることにした。寛永寺は徳川家ゆかりのお寺である。


 徳川慶喜は、近藤勇率いる新選組に身を守られて上野に移り、寛永寺の一部屋を借りて閉じこもった。この部屋がある建物は現存しており、ときどきその前を通る。近くに幼稚園があって、賑やかで楽しい。

 そして、江戸城寛永寺からは、慶喜の助命嘆願と、進軍中止を求める使いが次々と出た。和宮篤姫はさすがに歩かず、手紙を出している。和宮はよりによって、東征大都督有栖川宮熾仁親王のかつての婚約者であった。許嫁を徳川家にとられては、進軍もしたくなるだろう。


 自ら出向いた人に、輪王寺宮がいる。また、ほぼ同じ時期に、「坂の上の雲」にも明治天皇の教育係として乃木希典西郷隆盛と共にその名が出てくる鉄舟山岡鐵太郎が東に向かった。輪王寺宮は、大都督から慶喜助命の件は承諾を得たが、進軍はとまらない。

 そちらの件は事務レベルの折衝で条件交渉が行われ、すなわち西郷隆盛山岡鉄舟の談判により基本的合意を得て、後日、全権委任の勝海舟が正式に西郷との間で無血開城の同意に至る。


 ちなみに、大都督や西郷どんは、この時期、東征途上で駿府にいた。私の生まれ故郷の静岡市内である。どうにも歴史上では冴えない話題しかない土地柄で、家康が少年時代に今川家の人質になったとか、家出した北條早雲が出世したとか、当主義元が桶狭間で信長に討たれたとか、地味にもほどがある。

 ただし、この時期だけはこの江戸と徳川の命運をかけた交渉事や、後に慶喜が一大名となり静岡で晩年を過ごしたり、隣町清水に街道一の大親分、次郎長が出現したりと、けっこう出番はある。鉄舟はこれらすべてに関わっている。


 無血開城といっても、良く知られているように旧幕臣や江戸の侠客ら、血気盛んな連中がてんでに上野の山に立てこもり、彰義隊を結成した。山岡鉄舟は何とか解散せようと文字どおり走り回ったが、そもそも大将もいない群勢にすぎず、勝手にあちこちで戦闘を始めてしまった。

 寛永寺正面の黒門を攻めたのは、西郷率いる薩摩軍が主力で、ここが激戦地になった。黒門はいま荒川区に移設され、かつての正確な位置を知らないが、おおむね西郷どんの像が立っている辺りだ。


 官軍は不忍池越しにアームストロングの砲弾を撃ち込み、西の谷中方面からも攻めた。今も谷中の経王寺の山門にのこる銃弾のあとは(写真右)、この西部戦線における銃撃の痕跡だろう。攻め手の作戦担当は大山益次郎で、彰義隊が背水の陣を敷かないよう、上野の北側は放置した。

 梅雨時の大雨の中、戦闘は半日もかからず、彰義隊は二百余名の死者を出して、輪王寺宮ほか寛永寺の関係者とともに、北側の根岸・日暮里方面に逃げた。地域住民は彼らをかくまったが、彰義隊の戦死者は、しばし戦場に放置された。このころは、そういうことが普通だったらしい。

 ちなみに、慶喜を大坂で拾って江戸に運んだ榎本武明の幕府海軍は、駿河湾で海難に遭い、多数の水死者を出したが、これも放置された。埋葬したのは、清水の次郎長である。彰義隊の場合は、山岡鉄舟が葬り、上野に大きな慰霊碑も建てた。今もあります。場所は西郷どんと愛犬の像の背中側。


 若き輪王寺宮は、心ならずも宮様にして朝敵にされてしまい、炎上した寛永寺をあとにして、まずは根岸に逃げ、そこも危ないということで、更に三河島のほうに逃げた。上野近辺から三河島方面に行く道は、江戸時代そのままのルートで今も何本か残っており、私が商用・私用で歩いている。

 追捕は厳しく、宮は北へ北へと逃げた。北も戦場になっている。日清戦争のとき在韓公私だった大鳥圭介と、第一師団長の山地元治は東北で敵同士だった。日露戦争時では第八師団長だった立見尚文と、騎兵隊の山形有朋が北越で戦っている。


 しかし東北の大藩が次々と降参し、輪王寺宮も、立見も大鳥も榎本も降伏した。圧巻は立見の上司、桑名藩主の松平定敬だろうな。なんせ海外まで逃げ、路銀が尽きて出頭した。みんな新政府でも、お役に立っているところがこの国の面白いところだ。

 輪王寺宮は、京都で軟禁状態になり、一時期は宮家から追放されたりと散々であったが、後に名誉回復して北白川宮能久親王を名乗るようになる。ところが、時代は錦の御旗の下、西洋並みの軍事国家を目指すようになっていた。まだまだ振り回される御運であった。




(おわり)





この季節の上野谷中は本当に美しい。
(いずれも、2017年4月23日撮影)






































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