正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

鵄  (第108回)

皇師遂撃長髄彦連戦不能取勝時忽然天陰而雨氷乃有金色霊鵄飛來止于皇弓之弭其鵄光曄莘条如流電

 このブログも、煩悩の数だけ叩いて第108回。格調高く漢文で始めてみました。かくのごとく日本書紀は本邦初の史書なのに、漢語で書かれている。たぶん中国に読んでもらうためだ。同時期の古事記は万葉仮名なのだから。

 前回までに何度か出てきた明治維新の東征大都督という肩書は、神武天皇の東征を意識していること間違いなし。上記の漢文は、その神武天皇の功績の一部であり、何となく字面を追っていくと、ナガスネヒコと戦ったときのことであることが分かる。


 どうしても読めない漢字の一つが、「鵄」であるが、これは前回に子規が書いていたように通常は「鳶」で、鳥さんのトビである。トンビとも言う。なぜか、ここでは金色で、雨の中を飛んで来て畏れ多くも天皇の弓にとまり、その光輝くこと流電のごとしであったという。

 このおかげで、それまで連戦連敗の強敵だった長髄彦をついに討ったらしい。弓で一休みとは無作法な気もするし、ヤタガラスの世話にもなっているのですが、兎に角これ以降、金のトビ(金鵄、きんし)は縁起物となった。


 前回の「病床六尺」の記事にある「東京美術学校で三間ほどの大きさの鳶を鋳たさうな、これは記念の碑として仙台に建てるのであるさうな」という子規の見聞録は、この金のトビのことだ。と断言していいかどうかはともかく、それに違いないと思うニュースを去年(2016年)、耳にしたのを覚えている。

 2011年3月11日に北日本・東日本を中心に列島を襲った大地震により、仙台市青葉城跡内にある「昭魂」と書かれた慰霊碑の上に掲げられていた大きな鳶の像が落ちてしまった。修復に時間がかかったが、ようやく去年、元に戻ったという報道があり、関連情報が今もいくつかネットに残っている。


 その一つ、河北新報の記事を部分的に転載させていただきます(2016年10月14日付)。いつもお世話になります。

東日本大震災で被災した東北最古のブロンズ彫刻「金鵄(きんし)像」が修復され、仙台市青葉区仙台城跡で13日、設置作業が行われた。観光客らが見守る中、作業員がクレーンで両翼6.7メートル、重さ4.7トンの像をつり上げ、戦没者慰霊塔「昭忠碑」前の台座に据え付けた。震災前は高さ約20メートルの昭忠碑の上にあったが、鋼鉄製の支柱が折れて落下し、左翼や頭部が壊れた。文化庁の震災復興事業で約9200万円をかけ、東京の専門工房で修復された。像はトビがモチーフ。東京美術学校(現東京芸大)の若手研究者らが1902(明治35)年に制作した。


 所在地、像の鳥の名、大きさ、製造年、制作者など基本情報がすべて、「病床六尺」と一致している。これは同一作品だろう。9200万円とは、造ったときより金がかかる修復だったに違いないが、何はともあれ、復旧してよかった。おめでとうございます仙台。東北最古か。

 1902年というと、日清戦争のあとで、日露戦争の直前である。このタイミングが選ばれた理由は知らない。ちなみに、この年の早々、八甲田山弘前の連隊が遭難し、多数の死者を出す痛ましい事故があった。


 明治陸軍はまず、中核の六都市に鎮台を置いた。「チンダイさん」である。後に師団と名を変えた。第一師団が首都東京で、あとは北から順番に、第二から第六まで番号を付けた。当時最北の仙台が第二師団である。

 日清戦争にも日露戦争にも、先の大戦にも派遣されている。日清戦争は、前回のとおり師団長が中将乃木希典で、台湾まで戦い続け、乃木さんは後に樺山さんから始まった台湾総督になっている。ちなみに、彼の後任が児玉源太郎で、孫文に接した話はずっと前に書いた。


 「坂の上の雲」において、仙台第二師団の日清戦争の記述は少なく、いよいよ直隷決戦かという時点で、大山巌司令官の第二軍を強化するために、第二師団を増派したと「威海衛」の章(文庫本第二巻)に出てくる箇所のみだと思う。

 日露戦争の場面では、もう少し詳しく出てくる。今回は第一軍に、最初から編入されている。司令官は、必勝を期す緒戦担当であるから「よほど勇猛な将がいい」という選定条件により、黒木為腊。黒木も日清戦争では第六師団長として威海衛での戦歴がある。


 「坂の上の雲」には、彼の下に師団の名が三つ、「遼陽」の章(第四巻)に紹介されていて、子規ゆかりの近衛、仙台の第二、小倉の第十二。司馬さんは至る所で、東北と九州の兵が最強と書いているが、さっそく黒木はその両者を率いて海を渡ったわけだ。

 ちなみに、三師団に加えて、近衛後備混成旅団の名もある。少し先の話になるが、「沙河」の章(第四巻)にも登場する。宮城出身の梅沢道治少将が旅団長であった。

 「後備」だから老兵で武器も古く、おまけに司馬遼太郎にまで「後備の兵隊が弱いというのは、この当時常識になっていた」とまで書かれている。だが強かった。詳細は少し先に譲ろう。花の梅沢旅団。


 これから別件に進むのは、私の感想文が、まだ黒木の第二軍に遼陽で太子河を渡らせたまま、待たせ切りにしてしまっているのだ。続きも書きたいし、また、その前にもう一つ、遼陽の関係で触れておきたい話題もある。正面を受け持った奥の第二軍と、左翼担当の秋山好古から、遼陽会戦の話が始まるのだ。

 最後に、左の何でもない写真は新宿区で撮影した菜の花とポスト。子規は「病床六尺」に、トビが出てくる「鳥づくし」に加えて、「見たいと思うもの」という切ない一覧表を作っている。その中に「紅色郵便箱」というのもある。春にはこんなことを書いていた1902年の秋、子規は世を去った。




(おわり)




根岸も谷中も春真っ盛りの新緑です。
(2017年4月20日撮影)































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