正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

仙台第二師団の門出  (第110回)

 子供のころから知っている日露戦争の戦場といえば、旅順であり奉天であり対馬沖であった。映画になるのは、二〇三高地日本海海戦であった。陸軍記念日海軍記念日は、奉天対馬沖における勝利の日であった。

 小説「坂の上の雲」の貢献の一つは、これらのみならず、特に陸軍が苦戦を重ねた遼陽、沙河、黒溝台の各会戦を、その前後も含めて丁寧に描いていることだ。それぞれの戦場において、まだ大量破壊兵器もない時代に、日露両軍は万単位の死傷者を出し続けている。


 1902年に金鵄の慰霊碑が建った二年後、地元仙台の第二師団は黒木為腊司令官の第一軍に編入され、1904年3月下旬、その前月に発せられた対ロシアの国交断絶および宣戦布告を受けて日本海を渡った。

 その前年に陸軍を襲った悲劇は、作戦担当の田村怡与造の急死だった。私は勘違いしていたのだが、田村さんは参謀総長ではなくて次長。のちにヒゲの長岡が着任したポストだが、戦闘が始まれば平時の地位・肩書は二の次で、作戦の総責任者は児玉源太郎になった。児玉も山縣も大山も、みな大臣の経験者である。


 その児玉は、第一軍による「華やかな」勝利で始まらないと、お金が足りなくなるという算段をした。初めから借金依存体質で、海外における日本国債の売れ行きが良くないと、戦費調達ができない。後に出てくるが「日進」と「春日」の購入費の支払いにさえ難儀しているところだった。

 このため黒木軍には、ふんだんな武器弾薬を備え、強兵を配した。国運を担った「侍あがりの戦争職人」黒木は、「陸軍」の章(文庫本第三巻)によると「珍しく演説した」。総員に向けて、諸子はこの黒木とともに帝国陸軍の先鋒であると始めた。

 締めくくりは「世界各国みな耳をそばだてて、これを聴視している。諸子、一挙一動もいやしくすべからず」。侍の美学から見事に一歩も出ていない感じがする。その心配はご無用であったが、特に露軍の集中攻撃を受けた遼陽と沙河では、世界各国のひと目を気にしている場合ではなくなることになる。


 ロシア陸軍の海戦当時の用意は、粗雑に過ぎたと書いてある。マカーキの陸軍は、ウラジオ艦隊に行く手を阻まれて、海を渡れないとまで言っていたらしい。その極東艦隊は、日本海軍の頑張りで旅順港に閉じ込められたまま、黒木軍は海を越え、朝鮮半島を縦断し、鴨緑江を渡って九連城を奪った。

 このころ露国陸軍は、リネウィッチ将軍のシベリア第一独立兵団が遼陽に、ビリデルリング将軍の第二独立兵団が北の奉天にあった。これらがお互い「独立」のままでいるうちに、日本側としてはそれだけでも兵力が均衡している第一兵団を叩かないといけないから急いだ。


 ただ急いだだけではなく、満洲に総司令部を置くことになった。大山・児玉が遼東半島に渡って総司令部を設置したのは、黒木よりあとで1904年の6月。このあと日本の暦でいうと夏に遼陽、秋に沙河、年が明けて冬に黒溝台、春に奉天

 遼陽には3か月前から、クロパトキンが入って待ち受けている。関ヶ原石田三成も先着だった。必ずしも早い者勝ちではないらしい。南から奥の第二軍、東から黒木の第一軍、そして新着の野津の第四軍が集結したのも遼陽。古くからの要害の地であったらしい。ここで戦うべくしての戦いがあった。


 8月24日に第一軍、25日に第二軍が行動を起こしている。奥保鞏の第二軍が敵主力と衝突したのが首山堡で、遼陽の最激戦地になった。右翼の黒木軍が太子河を渡った場面を先に書いたのだが、いきなり渡ったわけではない。それではいくら何でも見つかるでしょう。

 第一軍はまず、目前の「第一線防衛陣地」を打ち破り、続いて第二線を攻めると見せかけて少数の兵のみ残し、夜中に渡河した。この第一線は、二昼夜にわたる激戦で、黒木の兵は「信じられぬほどの勇猛さであった」とある。

 仙台第二師団は、ここで「師団ぐるみの夜襲を敢行して、弓張嶺をことごとく奪ってしまったことは世界史上の奇蹟とされた」。もともと夜襲は仙台師団の特技で、開戦前から訓練していたらしい。このあとで濁流巻く太子河を渡り、更にもっと凄惨な戦闘に入っている。




(おわり)




この樹の近くに、有坂成章さんの墓地がある。
(2017年4月23日撮影)










































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