正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

哨艦列  (第117回)

 前回、書き漏らした。資料の引用元の戸郄一成編「日本海海戦の証言」は、戸郄さんが編者あとがきで示しているように、「戦袍余薫懐旧録 第2輯」(大正十五年)という書籍に拠るものが多い。

 国立国会図書館のサイトにある。旧仮名遣いで写真や補足もないが、原文をご覧になりたい方は、こちらをどうぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447099


 本日の資料として使わせていただく「露国病院船アリヨールの捕獲、露艦ナヒモフおよびウラジーミル・モノマフの捕獲処分」という長い名前の文章も、上記の両者に収められている。この報告者は当時の海軍中将で、日本海海戦のとき仮装巡洋艦佐渡丸」の艦長だった釜屋忠道大佐。

 ナヒモフとウラジーミル・モノマフの話題も含めると長大になってしまうので別の機会に譲ることとし、本日と次回はタイトルどおりで、その前半のみです。さて、釜屋大佐は本文冒頭において、明治三十八年三月中旬まで、すなわち旅順陥落のときまでは、通報艦「龍田」の艦長で、そのあと「佐渡丸」に移った。


 この「龍田」時代の釜屋さんの名が、「坂の上の雲」文庫本第五巻の「海濤」に出てくる。陸海の砲撃で旅順艦隊は湾内に沈んだ。だが戦艦セヴァストーポリの姿が見えない。東郷長官がご自分で確かめに行くということになり、真之が船は「竜田がいいでしょう」と言っている。

 同行者は、後日ご本人いわく、トーゴ―・ターンの前に「次の甲板におれ」と東郷さんに言われてしまい、前部艦橋から大事に奥まで下げられてしまった若手参謀の飯田久恒少佐(当時)である。でも砲弾の破片か何かで怪我をしている。

 東郷長官はご自慢のツァイス双眼鏡で、「龍田」に付いてくる味方の駆逐艦運動の観察に余念がなく、このため機雷が流れていないかどうか、釜屋さんや飯田さんが前方を注意し続けることと相成った。幸いお騒がせの「セヴァストーポリ」は、長官ご自身の敵情報告によると「沈んでおります」のであった。


 釜屋佐渡丸艦長の上記談話によると、バルチック艦隊が近づきつつある5月26日に、片岡七郎中将の指揮下、佐渡丸他は五島列島済州島の間の哨戒勤務に就いた。日中は「西方哨区」にいて、夜は対馬方面に引き上げていたらしい。

 僚船も含め配備は「四列哨」という地域担当があったそうで、「第一線は満洲丸、第二線は信濃丸、第三線佐渡丸、第四線は亜米利加丸」という布陣だった。このうち亜米利加丸は、このあともう名前が出てこないので、今のうちに私の個人的な関心を書き残しておきます。

 
 亜米利加丸も長く働いた船で、太平洋戦争時は、海軍に所属しつつ陸軍兵の輸送や外地の民間人の引き上げなどを担当していた由。敵軍がマリアナ諸島に迫りつつある1944年3月6日、サイパンから多くの民間人を載せて日本に向かっていたこの「亜米利加丸」は、敵潜水艦の攻撃を受けて沈没した。合掌。

 同日、本土から逆方向に、遼陽会戦で首山堡の激戦に参戦した戦歴を持つ歩兵第18連隊を載せてサイパンに向かっていた「崎戸丸」も、敵潜に沈められて損害多数。


 なお、翌々月には私の伯父が所属する第118連隊も、マリアナへの海上輸送中に同様の被害に遭う。伯父の戦死地は、戸籍や軍の記録ではテニアン島になっている。私もそう信じている。

 だが、実際は海没したのか、サイパンに着いたのか、本当にテニアンで戦死したのか、上記の紙資料以外に、物証も証言も遺骨も遺品もないため明確でない。その件については別のブログにしています。ご参考まで。
http://ameblo.jp/tinianisland/entry-12240895566.html
 

 脱線しました。釜屋報告によると、午前四時四十五分に佐渡丸が信濃丸から受信した「連続暗号符」は、「敵艦らしき煤煙見ゆ」となっている。これは他の軍人の報告にも出てきており、佐渡丸の読み違いではないと思う。「二○三地点」の打電はどうやらそのあとで、さらに信濃丸は、濛気で敵艦隊を見失ったという打電をしたという報告も、釜屋さんほかから出ている。

 現代のように、自動的にレーダーやら電信やらの記録が残る時代ではない。加えて、私はまだ信濃丸自身の報告書を探し出し得ていない。みなさんそれぞれ、ご自身の真実を語っているのだから、どれが正しいのかは軍事研究にとっては重要なのだろうが、私は例によって自由に空想する。

 
 上記の「敵艦らしき」、「二○三地点」、「見失う」というのは、前後の脈略からすると、充分にあり得る発信の経緯であるように思う。先ずこのとき、いきなり敵艦隊の地点を確報できるものなのだろうか。四日前の佐渡丸の間違いもあるし、当日は空は晴れていたようだが(信濃丸は東の空に霞む月を見ている)、海上の気象は荒れている。それに夜明け前だ。

 しかも、最初に見つかったのが病院船らしいうえに、まだ暗くて確認に手間取っているのは間違いないようだ。さらに実際そうなるのだが、大艦隊と遭遇した場合、もしも沈められたら任務を果たさずに終わってしまう。最初に注意信号を出して、不自然ではないように思います。


 逃げ出した後(あるいは脱出しながら)であれば、「二○三地点」の報告ができる。なお、これと異なり「四五六地点」という電文をネットで見たことがあるし、映画「日本海大海戦」でも、こちらの説をとっていた。私には軍用の数字よりも、地理好きなので実際にどの辺なのか分かれば充分です。



 ちまた伝わるところの「二○三地点」の北緯東経からすると、ごく大雑把な位置ですが、このあたりだと思います(いつの日か、グーグル先生に叱られるかな)。赤い十字の下に五島列島と、その北側に白瀬岩礁があるが、信濃丸の確定報告については多くの資料に「白瀬北西」という表現が見える。


 そのあとで見失ってしまったという件についても、複数の受信報告がある。後日別途、話題にしたいが、特に巡洋艦「和泉」が受電しているのだ。このあとの「和泉」の急ぎ具合と、当面の孤軍奮闘ぶりをみるに、露軍艦隊が「信濃丸」どころではなく先を急いで、同船が立ち込める霧の中に置き去りにされてしまって不思議ではないような気がする。以上、念のため改めて、私の勝手な推測に過ぎません。

 「佐渡丸」も、「信濃丸」の「見失えり」を受けて、まだ見ぬ敵艦隊を追走した。その後を「満洲丸」も追ってくる。バルチック艦隊の後ろ姿が見えたころには、その間に第五・第六の戦隊も見え、間もなく「壮絶と言わんか、快絶と言わんか」という激戦が始まった。


 こうなると仮装巡洋艦は砲戦に参加もできず、片岡中将の第五戦隊に近づき、「面白いと申してははなはだ相済みませんが、実は心配しながら、非常に熱心に観戦いたしておったのであります」ということになった。

 このとき、片岡司令官から「南南西に敵の病院船見ゆ」という電信がきた。さっきから見えている。それは注意を与えられたものだと一方で思いつつ、「われらに適宜に処分せよとの意を言外に伝えられたものと解釈」した釜屋艦長は、観戦の特等席を蹴って立ち、「全責任をこの双肩に担い」つつ出陣している。以下つづく。





(おわり)






テニアン島 (2017年1月12日撮影)