正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

和泉艦長  (第119回)

 司馬遼太郎街道をゆく」は、第43巻の最後に「未完」と書かれており、すなわち絶筆だろう。手元にその文庫本があり、前にもどこかで引用した覚えがあるが、改めて私の好きな箇所を引用します。

 古代ギリシャの哲学者は、勇気と無謀は違うとした。無謀はその人の性情から出たもので、いわば感情の所産といっていい。勇気は、感情から出ず、中庸と同様、人間の理性の所産であるとした。 (街道をゆく 43濃尾参州記)


 古代ギリシャの哲学者というのは、どうやらアリストテレスのことらしい。中庸はもちろん孔子さまの思想の根幹をなすものであり、お釈迦様におかれても中道は四苦八苦から逃れるための王道でもあった。私たちは感情で苦しんでいるのだな。

 これらの諸概念の細かな違いは、ここで全く問題にならない。勇気というのは、一見とても感情的なものに思えるが、古代の賢人は違うという。理性が紡ぎ出すものなのだという。


 この勇気という理性の産物を、ここで私は、日本海海戦で小さな軍艦に乗り込んで強大な敵と対峙した人たちに見出そうとしている。いきなり東郷長官を出したら、話が終わってしまうからね。

 文献は大正15年の「戦袍餘薫懐旧録」。陣羽織に硝煙の残り香。この章の名は、「海戦前後の『和泉』の行動」。語り部は「坂の上の雲」でもおなじみの和泉艦長、石田一郎海軍大佐(海戦当時)。


 1905年5月26日、巡洋艦「和泉」は僚船「秋津洲」とともに、戦隊から一時離れ、「臨時増援哨艦」の任務を帯びた。このたびの哨戒は、商船を仮装した船団だけでは足りず、「秋津洲」が済州島方面、「和泉」が「五島白瀬」の海域を担当することになった。艦長は対馬出航時、「ロ達訓令」と「シールドレッター」を受領した。

 訓令のほうは、敵艦隊が来たら本来の所属である第6戦隊に戻れという常識的なものだった。嫌な予感がしたのは後者の「封密命令」で、指定の時刻に開封したら案の定、「二十八日に至るも敵が対馬海峡方面に出現せざる場合には、対馬海峡方面に単独急行すべし」とある。単独。


 敵は27日にやってきた。その前日に、バルチック艦隊が不要の船舶を上海に追った情報を、連合艦隊も石田さんも26日にはすでに知っている。足手まといを振り払い、燃料を補給して、すぐ来るだろうと26日の手記に石田艦長は書く。

 さらに、この時期の津軽・宗谷は「海霧の本場」。安全と所要時間を考えれば、敵艦隊は「直径的」な進路をとるに違いない。となれば、ここに来る。5月27日午前5時47分、「南方警戒の哨艦信濃丸」より、「和泉」にも警報が届いた。「敵の艦隊二○三地点に見ゆ」。


 ところが、いくらもなくして信濃丸より「われ艦隊を見失えり」という続報が来た。敵は野放しである。「ここで長蛇を逸しては国家の一大事である」と石田艦長は決意を固め、ここから「和泉」の追走が始まる。それも無闇に追いかけたりはしていない。

 石田大佐は敵の進路と速度を推定し、自分は北に進んでの遭遇を企図し、やがて7千メートルの距離に、艦隊を発見した。威風堂々たる外貌で、「これではわが艦隊もだいぶ骨が折れるにや」と思う一方で、煙突が黄色、重心が低く燃料の積み込み過ぎではないかと観察も怠らない。


 先ほどの訓令にしたがえば、艦隊を認めた以上、第六戦隊に戻るのが責務であろう。ところが、見渡す限り「現に敵と接触しあるは本艦のみ」としかみえない。ここで艦長は万一の場合の逃げ方まで想定したうえで、単騎、主力が遭遇するまでの間、接触・観測を行う決意をする。

 霧が晴れない。これでは敵も自称「小艦」である「和泉」に向かって行う「初弾一発の心中は覚束ないであろう」と考えた。小さいから当たらないのだ、いきなりは。

 
 この小判鮫のようにつきまとう「和泉」から、味方に発信された電報が転載されている。戦後、来る前から敵艦隊の規模や形状が手に取るように分かっていたと司令長官から感状まで頂いた索敵の報告一例である。立場といい勇気といい、秋山好古とそっくりなのだ。

 「敵の兵力形態はボロジノ型四隻、シソイ・ウェベリキー、オスラビア、ナワリン、ナヒモフを右側列とし、ニコライ一世、セニャーウィン型三隻、オレーグ、オーロラ、ドンスコイ、モノマフ等劣等艦を左側列とする二列縦陣形にして、ジェムチューグ型三隻、駆逐艦数隻を前衛に配し、仮装巡洋艦工作船、運送船若干を列間後部に挟み、病院船二隻を後尾に伴い、進路北東微東、速力十ノットなり。」

 バルチック艦隊は、この日、陣形をあれこれ変えるという面倒なことを開戦直前にやっているので、後述するように場面によって艦隊の形態が異なるのだが、それ以外の進路や速度などは、後に接触する出羽重遠や鈴木貫太郎が、「和泉」の言うとおりだと一言で済むほどの確度だった。

 文中で面白いのは、まず「ボロジノ型四隻」という表現で、これは敵の主力にして当時の世界最新鋭の戦艦群なのだが、遠目には見分けがつかなかったのかもしれない。

 先頭から順に「スワロフ」、「アレクサンドル三世」、「ボロジノ」、「アリョール」のはずだ。軍艦と病院船の両方に同名の「アリョール」がいる。他の観察者の報告も同様で、四隻ともトン数まで同じなのだから仕方がない。「たぶん先頭が旗艦のスワロフだろう」などと書いている。


 それに続く「シソイ・ウェベリキー、オスラビア、ナワリン、ナヒモフ」は、最終的には「オスラビア」が先頭に立っているが、古いだけに見分けがついたらしい。「オスラビア」の外見は特に目立ったそうだ。

 以上のロジェストウェンスキーとフェリケルザムの第二太平洋艦隊が右列。「劣等艦」として一まとめにされている「ニコライ一世、セニャーウィン型三隻、オレーグ、オーロラ、ドンスコイ、モノマフ等」は、ネボガトフの第三太平洋艦隊で左列。

 さらに、「ジェムチューグ型三隻、駆逐艦数隻を前衛に配し」とあるのだが、これらは午後2時の日本側海戦図では、ボロジノ型四隻よりも更に右側に出ており、この図では三列。実際には「オダンゴ」とか「ヘンナカタチ」とか、現場で珍重されている。病院船二隻は守ってもらっている様子。

 
 このあとで「和泉」が多忙を極めた騒動は、この談話にも「坂の上の雲」にも出てくる。そうとは知らない船が、平気で戦場予定地に泳ぎ出してくるのだ。特に陸軍輸送船「鹿児島丸」は、あろうことか敵艦隊に「海軍万歳」を唱えている。

 石田艦長は単に慌てただけではなく、「常陸丸の二の舞」は避けたかったと書いている。同じ海だったのだ。同じ敵だったのだ。敵もこちらに気づいている。そして、ロシアに「ナヒモフ」あり。午後1時30分ごろ、「アドミラル・ナヒモフ」は隊伍を離れ、猛進し来たりて「和泉」に猛撃を加えてきた。


 その激しさに、「和泉」も応戦しつつ、南方に退避した。石田艦長は樺山砲術長と「当たるもんか、しょせん和泉の敵ではない」と大笑いしていたところ、二発も当たった。気の毒に二名の死傷者が出た。

 しかも、もう一弾が、「架空線を遮断して、通信を途絶するに至らしめた」。信号を出せなくなって、猟犬「和泉」の哨戒は終わった。艦は沖ノ島の南方に漂いつつ通信線の応急処置を終え、同島の北側に回ったときには、全軍が「砲火交ゆる」戦況に至っている。


 前回の釜屋艦長の証言と重なるのか矛盾するのか分からないが、このとき「和泉」は病院船「アリョール」を見つけて一発見舞い、これを停船させてから、第六戦隊に追いつき殿艦を務めている。

 差しで勝負した相手のナヒモフは、その敢闘と最期がよほど印象的だったとみえ、読む本どれにも出てくる。第二駆逐艦隊の魚雷を浴びた。それでも長く戦場にとどまり、徹夜で排水作業をし、ゆっくり沈んだためか、乗員が海上に放り出された。うち523名を佐渡丸が救助し、釜屋艦長は拾い上げた敵の艦長に、巻煙草をのませて休息させている。




(おわり)





皇居、田安門の前。このすぐ近くに、大山巌の騎馬像がある。
(2017年4月26日撮影)




































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