正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

六月の風  (第126回)


  須磨

 六月を綺麗な風の吹くことよ  子規


 私の好きな句だ。これを知ってから、自然と毎年、綺麗な風の吹く季節が訪れるようになった。明治二十八年の作である。1895年。この年は、子規にとって事の多かった一年だった。4月、日清戦争に従軍。

 大連湾に行く海上対馬を見返りて「日本のぽつちり見ゆる霞哉」と詠んだ。この年の4月も対馬沖は霞んでいたらしい。師団と諍いを起こし、従軍を切り上げて帰国の途についたのが5月。同22日に神戸の和田岬に着いた。


 この船中の喀血や下船後の入院までの経緯、そして治療と保養の時期における子規の言動が「坂の上の雲」の文庫本第二巻「根岸」と「須磨の灯」に詳しいのは、その前半を子規が「病」に、そして後半を虚子が「子規居士と余」に詳述しているからだ。

 ついでに、そのあとで故郷の松山にも行ったのだが、ここでも下宿を半分乗っ取られた漱石が、「大将」の思い出話を書き残している。国語や歴史の教科書に名前が出てくる人たちがリレーで書き繋いでいる。


 子規が神戸で入院したのは5月下旬から7月下旬までの二か月間、続いて須磨の保養院に入ったのが8月下旬までの一か月。松山に移り、大阪から奈良に出て柿を食い、本人はリューマチだと思っていたが、実はカリエスによる腰痛を起こして、東京にやっとこさ戻って来たときには冬になっていた。

 さて、繰り返すと子規は6月が過ぎ、7月になってから須磨の保養院に移っている。保養院とは、サナトリウムのようなものだろうか。ともあれ、冒頭の句は、詞書にある場所の須磨と、歴月が合わなくなってしまうのか。そういう誤解や小細工をするような男とも思えないのだが。


 以下は根拠の薄い推測だが、落ち着かないままでは嫌なので自分なりに考えた。子規や虚子が、「神戸病院」あるいは「神戸の病院」と呼んでいるのがどこにあったのか分からない。ただし、海からそんなに遠いとも思えない。

 和田岬も須磨も、今の神戸市内にある。和田岬で下船した子規は、神戸病院に人力車で行こうとしたのだが、それすらできず、記者仲間が担架を運んで来てくれて、それに載せられて病院に担ぎ込まれている。

 土地鑑がない以上、断定的なことは云えないけれど、神戸の病院は海に近いはずだ。そして、須磨の海岸は、子規がこれぞ写生だと感激しながら読んだ「源氏物語」に出てくる古い地名であり、病院のあたり一帯や海辺が、子規にとっての須磨であるような気がする。


 ちなみに、暦のこともある。明治政府は維新早々に、新暦太陽暦・西暦)を採用した。他方で、私が生まれ育った昭和三十〜四十年代の田舎の年寄りは、なお時々、旧暦・尺寸・華氏を使っていたものである。

 子規は新聞記者だから、新聞日本に掲載した記事や随筆は、おそらくほとんどが新暦のものだ。一方、古典文学である和歌や俳句は、五月雨が好例だが、旧暦を使うこともあったと思う。これは悩んでも仕方がないし、決めつける問題でもない。

 一句は、一時期、死ぬかと思った子規が、ようやく回復していくときに、詠まれたものだろう。「子規居士と余」には、保養院の時期における子規の様子を、虚子が描いた文章がある。


 保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちていた。何の雲翳もなく、洋々たる前途の希望の光りに輝いていた居士は、これを嵐山清遊の時に見たのであったが、たとい病余の身であるにしても、一度危き死の手を逃れて再生の悦びに浸っていた居士はこれを保養院時代に見るのであった。我らは松原を通って波打際に出た。其処には夢のような静かな波が寄せていた。塩焼く海士の煙も遠く真直ぐに立騰っていた。眠るような一帆はいつまでも淡路の島陰にあった。ある時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦を食った。居士の健啖は最早余の及ぶところではなかった。

 ところで、章題「須磨の灯」の「灯」とは何だろう。思い当たる節といえば、夕食後の時間帯に子規と虚子が交わした会話のことだ。子規が虚子に事業の後継を頼んだのは一回限りのことではない。前に話題にした「道灌山の破裂」は、その名の通り最後に決裂したときのものだ。

 「坂の上の雲」にも出てくる最初の応答は、この須磨の保養院での夜に、子規が切り出したものだ。虚子にとっては光栄でもあり、重荷でもあったと本人が書いている。虚子が即断即答しなかったために、二人とも半年ほど悩むことになった。


 この夜の子規は、まず虚子に対し、介抱の恩は忘れないと語っている。私は多くの人が、正岡子規は明るいと評価していることに、どうにも違和感がある。確かに、重病人のくせして好奇心旺盛であり、諧謔の精神を大いに発揮しているのだが、そういうのを明るいというのだろうか。

 むしろ私にとっての子規という人の魅力は、こういう感謝の気持ちを自然と抱き、うまく相手にも伝え、文章や俳句にも残す人柄にある。あれだけ新聞記事では律の気の強さや無学を攻めたり怒ったりしているのだが、妹をうたう句は暖かい。


 入院・保養中に、従軍記者仲間がお見舞いに来てくれた話を虚子が書き残している。束の間の仕事仲間に世話になった恩は、「病」や翌年の「従軍紀事」にもきちんと反映されているように思う。羯南翁からも大原家からも、受けた恩義は忘れていない。

 虚子は学校で「教育勅語」を聞かされたエピソードも記しているが、子規や正岡家に接していれば、自ずと身に付く人のみち。そんな子規だから、病がうつれば自分にも「死が予定される」覚悟が必要な重症患者の看病を、大勢があれほど長い間続けたのも分かるような気がする。

 上記の引用文中において、虚子が「嵐山清遊」と語っている出来事は、まず間違いなく虚子の学生時代に、子規がその京都の下宿などを訪ねたときの回想だと思う。よほど印象が強かったとみえて、二人とも随筆に記している。敦盛蕎麦って何だろう。美味そうだな。



(おわり)




 

六月の風景
(2016年6月3日、湯河原にて撮影)




































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