正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

三尾の紅葉  (第127回)

 これを書いているのは、もうすぐ梅雨入りの季節ですが、紅葉の話題も、成り行き上しかたがない。文庫本「坂の上の雲」第二巻の「日清戦争」という章に、正岡子規の引越しの話題が出てくる。転居のきっかけは就職だった。新聞日本に入ることができた。

 芭蕉破れて書読む君の声近し  子規

 この「君」が、採用担当兼社長の陸羯南で、子規はその隣家に住む手配までしてもらった。今日も私はその近くを歩いてきました。根岸の里です。明治二十五年、子規は松山に帰り、嫌がる母と出戻りの妹を連れて、東京へ一家で引っ越すことになった。


 そのころ、高浜虚子は三高(今の京都大学)に入り、聖護院で下宿していた。ちなみに、一時期、虚子が別の下宿に暮らしていた吉田は、私が京都での学生時代に下宿していたところであり、また、東京に来てから虚子が下宿した場所は、いまの拙宅からすぐそばである。

 虚子が聖護院の下宿で八つ橋を食っていたところ、ひょっこり子規が来たと「子規居士と余」に書いている。子規はちょうど東京に家族を連れていくため伊予に移動中で、虚子がいる京都に来たついでに寄ったらしい。住所さえわかれば、京都は家が見つかる。


 二人は南禅寺に散歩したり、八つ橋や牛肉やお多福を食べたりして別れた。その翌日、子規は嵐山に行ったと「松蘿玉液」に書いている。書いたのは明治二十九年で、五年前のこととして思い出話をつづっている(一年、数字が合わない)。「京都に遊び、三尾の紅葉を見たるも既に五年前のことになりぬ」と始まる。

 まだ、脚がしっかりしているころで、紅葉の谷まで歩き、人力車のところまで戻ったところ、車夫がなかなか風流で、楓の一枝を手に待っていた。子規はその紅葉葉をもらって帰ったらしい。宿で槌と砧を借り、高尾の楓の葉を「ハンケチ」に打ち込んだ。


 虚子の記憶では、これは高尾行の次の日だったようで、「その翌々日余は居士を柊屋に訪ねた。女中に案内されて廊下を通っていると一人の貴公子は庭石の上にハンケチを置いてその上をまた小さい石で叩いていた」。子規は珍しく洋服姿に靴を履いていたそうで、だから貴公子なのだそうだ。

 二人は京都の町中を歩きながら、文学や前途のことを語り合った。虚子にとって、「子規居士の顔の浮きやかに晴れ晴れとしていた事はこの京都滞在の時ほど著しい事は前後になかったように思う。」というほどの鮮烈な思い出になった。


 子規も「松蘿玉液」に、珍しく抑えきれない感情がほとばしるような筆致で、「この勝地に遊びこの友に逢ふ」で始まり、「今後再びこの喜びあぶべしとも覚えず」で終わる文章を残した。明治二十九年の歳も暮れるころの記事だ。日清戦争従軍の翌年にあたる。

 この年、子規は病状が悪化し、歩行困難になった。この記事の約一年前、道灌山には登れたのだ。そこで虚子に事業の後継を断られている。「松蘿玉液」の回顧談は、その後のことだ。虚子は虚子で退学し、碧梧桐と一緒に東京に出て子規を訪ね、「秉公も一緒ではろくなことではあるまい」という挨拶を受けた。




(おわり)




もうすぐ雨の季節  (2017年5月28日撮影)










































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