正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

秉公  (第128回)

 なぜ虚子は「清サン」なのに、碧梧桐は「秉公」なのだろうか。秉公がずっと歳若ならばまだしも、碧梧桐は虚子より、一歳だけだが年上なのだ。しかも、子規とは幼馴染というほど小さいころからの付き合いだったのでもなさそうだし。

 さらに言えば、碧梧桐の父上、河東静渓は伊予松山の藩校の教師という聖職にあって、しかも子規が青少年のころ師事した儒教・文学の私塾の先生でもあった。碧梧桐が緊張しながら、父と子規のやりとりを見ているシーンが「坂の上の雲」の第一巻「春や昔」に出てくる。


 私は文庫本と雑誌の特集ぐらいでしか子規の文章を読んでいないが、その範囲で子規が「旧師」の御子息を、「秉公」と書いている箇所を見たことが無い。

 虚子が「子規居士と余」の中で、居士がそう呼んでいたと書いているのと、「坂の上の雲」文庫本第八巻で、これは本当に幼馴染同士だった真之にも秉公と呼ばれていたとは書いてある。

 子規自身は「新聞日本」や「ホトトギス」に載る文章には、きちんと碧梧桐と書いているのみならず、日記の「仰臥漫録」にも、ちゃんと碧梧桐と書いているのであって、無闇に熊公八公と同列に論じてはいない。


 子規は虚子や碧梧桐らを「友人」と書いており、全体に呼び方は丁寧である。虚子は自分が子規の「門下生」だと書いているが、先輩のほうは、いつまでたっても彼らが文学仲間であった。俳句の「てにをは」に、「も」を導入したのは碧梧桐の功績であるなんて言う。「実に軽薄」とも書いている。

 それをいいことに、秉公は言いたいことを云う。いちいち数えたわけではないが、「墨汁一滴」や「病床六尺」の登場回数は、おそらく碧梧桐が一等賞で、たぶん虚子や鳴雪より多い。これは文学論においても、日常生活の記録においても同様です。

 たとえば、子規の病気は朝が辛い。このため、夜寝るのすら怖い。碧梧桐夫妻は早朝から看病に来てくれて、自分の夜を短くするために深夜まで居てくれると「仰臥漫録」に書いている。木の板で出来た扇風機を、手作りで贈ってくれたのも碧梧桐だった。


 子規のサロンのような句会や、「ホトトギス」等の評論において、碧梧桐は謂わば道化役のような役柄を演じていて、例えば「柿食えば」の句でさえ、「こうしたほうがいい」などと改訂案を出す。子規は「ごもっともの説」と書きつつ、「語調が弱くなる」と反撃している。

 秉公は子規の他の句に対しても、複数挙げては「月並調」であると、相手が一番怒りそうなことを記事に書く。子規の反論に遭うと、今度は「月並調とは、そもそも何ぞや」という論戦を挑む。とにかく、やんちゃであった。虚子は石仏のように大真面目な印象があり、対照的な感じがする。


 句界の方々が、ときどき使っている「碧虚」という言葉は、子規がこの一緒にいるとろくなことがない郷土の後輩二人を、一まとめに呼ぶとき、碧虚二氏とか碧虚両氏などと書いていたからだろう。本来の「碧虚」の意味は、「青天。あおぞら。」(広辞苑第六版)である。

 この碧虚は、交代で子規の看病にあたった。夜もどちらかは子規庵に残った。子規の臨終は明治三十五年(1867年)の秋。9月18日、子規は近くにいた秉公の助けを得て、糸瓜の三句をつくった。これが絶筆になった。碧梧桐が、そのときの様子を克明に記録に残している。墨をすったのはお律。


 その晩の看病の当番は、虚子だった。日付が変わって19日、深夜の一時ごろ、子規が世を去ったとき、母と妹と虚子が臨終の床にいた。母お八重の様子が、「坂の上の雲」の「十七夜」に出てくる。虚子がみると「子規の蚊帳のそばに、母親のお八重が小さな影を作って座っていた」。

 八百万の神には、俳句の神様というのも、いるのかもしれない。そのご配慮なのか、碧虚両氏は、最後にそれぞれの役を担って、升さんをおくった。私の友が眠るお墓がある近くのお寺に、「へちま地蔵」というのがある。「たんせき」、「ぜんそく」にご利益があるらしい。十五夜が最適と聞く。



(おわり)




へちま地蔵  (2017年6月14日撮影)








をとゝひのへちまの水も取らざりき  子規








































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