正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

八百屋お七  (第132回)

 司馬遼太郎乃木希典を様々な表現で描写する。司馬文学における乃木さんとは、例えば「自分の精神の演者」であるとか、「精神美の追求」とか「傾斜」とかいった形容が付く。

 乃木さんにとって、自分は自分の人生という劇の役者であり、それを自分で演出する。雑駁に平たく申せば、目立ちたがり屋であった。常に人の目を気にしている。しかも、それが命がけだ。

 自分だけではなく、家族もその劇中人物を演じさせているかのようだ。その生だけでなく、その死まで。ご本人にとってはこの上ない供養であったのだろうが、私は自分の子どもたちが戦死した場所で、いきなり漢詩をよみ、人に見せたりはしない(詩作の能力もありませんが)。


 中編小説「殉死」は、二つの章からなっており、前半が「要塞」、後半がすごくて「腹を切ること」。この第二章のほうに、奥様が登場する。薩摩の武家の娘で、戸籍名を「シチ」、呼び名は「お七」といった。

 すぐ上の姉さんが六番目の子で、お六。その次に生まれたので、お七。ここまで来ると背番号みたいなものだな。実家の湯地家は貧しく、「貧乏人の子だくさん」、「狭いながらも楽しい我が家」だったそうで、お七も明るく育ったらしい。


 これがご維新で、湯地家も乃木家も支配者階級になり栄達した。司馬さんによれば、薩長藩閥争いにうんざりしていた乃木青年が、薩摩の娘ならと言ったばかりに縁談が進み、お七は運命の嫁入りと相成った。

 当時の女性は日本だけではなくきっと世界中で、軍人の妻女は特に、夫の人生に左右される度合いが大きい。それにしてもお七さんの場合は、二人の息子を戦争で失うわ、旅順戦が難航して自宅に投石されるわ、最期は急きょ殉死に巻き込まれるわで、大変な生涯である。私は行ったことが無いが、乃木神社は彼女をどう祀っているのだろう。

 
 ご成婚早々からして、夫に改名を強いられている。理由は、「この東京にあってはお七という名で連想される婦人の犯罪者が、江戸のころにいた。その連想が働く以上、軍人の妻としてふさわしくないであろう」というものである。

 乃木さんは「静堂」という号を持っていたそうなので、若干、訓みが似ている「静」の字を与えた。お七は、静子さんになった。しかし、今となっては分からないが、本当にみんなそういう連想するような時代だったのかどうか。


 乃木さんのいう「犯罪者」とは、放火犯の八百屋お七のことだろう。墓は今も本郷にあり、東大のそばだから漱石が近くに住んでいたし、子規も近所に下宿したことがある。このあたりは、私も何十回となく歩いている。

 でも大昔の人だ。徳川の御代が始まってから、数十年しか経っていない。乃木さん夫妻の時代から、二百年まえ。確かに江戸に住んでいた人だったが、有名にしたのは大坂在住の井原西鶴が書いた「好色五人女」である。ともあれ乃木さんは、こういうところまで過敏だった。いつもこうでは、誰よりご本人が大変だ。


 かつて刑事法の歴史の本を読んでいたら、江戸では放火して人が亡くなるような罪を犯すと、殺人よりも刑が重くなることが珍しくなかったらしい。木造家屋の密集地である。おおくの人命財産が失われる。さもありなん。

 お七が錯乱して放火したとき、時期も悪くて冬だった。関東平野に空っ風が吹き荒れる季節である。罪刑は火あぶり。場所も酷で、鈴ヶ森。江戸時代の代表的な処刑場で、且つさらし首にする場所の代表格が、品川そばの鈴ヶ森と、千住の小塚原。いずれも大街道沿いの宿場町で、見せしめである。


 西鶴の名は、子規の「松蘿玉液」に出てくる。論評の相手は、樋口一葉の新作「たけくらべ」で、子規にしては珍しく褒めている。子規は一葉の文体を、西鶴に擬している。面白いのは「われかつて閨秀小説を厭う」と書いていることで、樋口一葉は子規の文学の趣味をかえたのかもしれない。

 二人は同じころ、近所に住み、同じ病気のため亡くなっている。子規の随筆には、八犬伝や蕪村を始め、江戸時代の文学が頻出する。ドイツ留学前の一時期、放蕩な生活を送っていたという乃木さんだから、浮世草子を愛読していても不思議はないか。




(おわり)




なぜか下草にとまっているヒグラシゼミ
(2017年7月22日撮影)



















































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