正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

江戸っ子  (第133回)

 乃木さんが八百屋お七のような下世話な噺を知っていたのは、単に江戸の生まれ育ちだったからかもしれない。「殉死」によれば、誕生から十歳まで長州の支藩長府藩」の上屋敷で暮らした。

 私は学生時代に山口の萩にゆき、再建された松下村塾などを、地元の同期に案内してもらった。萩が江戸時代における長州の都だが、乃木家はその支藩だから分家筋だ。長府とは今の下関。児玉源太郎支藩徳山の出だから、長州閥といっても、いろいろある。


 乃木家は、少なくとも乃木希典によると、宇多天皇を始祖とする宇多源氏の出世頭とも言うべき、佐々木源氏の御子孫であられる。実は私の姻族も、この佐々木源治の末裔と称しており、黒田官兵衛の親戚だというから、大きく出たものだ。

 宇多源氏→佐々木→京極→黒田→うちの親類。最後を除けば、黒田まで由緒正しい「尊卑文脈」にちゃんと出てくる。この黒田が江戸時代は、福岡藩の殿様になった。江戸末期に生まれた家臣には、金子堅太郎や明石元二郎といった「坂の上の雲」でも異色の脇役がいる。


 この佐々木家の神様は、近江国にある佐佐木神社で、全国にいらっしゃる佐々木さんの氏神様なのだそうだ。乃木さんの場合も、「尊卑文脈」に「野木」という家があり、字は違うがその子孫なのだそうだ。

 このため、乃木大将は佐佐木神社への参拝を欠かさず、道が悪くて歩きづらいときは、静子夫人を車の中に待たせたまま一人歩いてお参りをしていた。これも、司馬遼太郎の随筆で読んだ記憶がある。司馬さんのご先祖も、官兵衛の黒田氏と関わりがある。ただし、そういう家系図や家伝は「いかがわしい」と、「播磨灘物語」に書いている。うん、そう思う。


 乃木希典の父上は、この長府藩馬廻役だったそうなので、家格・稼業としては子規の正岡家と同じだ。平時は警備担当である。このため、上屋敷で殿と一緒に住んでいたのだろう。屋敷の場所は麻布だと、司馬さんが「殉死」の冒頭に書いている。ただし、「お長屋」にいたとあるから、さすがに家臣用の別棟らしい。

 乃木さんがここで生まれたという石碑を見た覚えがある。正確な場所は記憶がないが、地下鉄の六本木駅のそばで、昔この辺で営業担当をしていたのです。司馬さんが「殉死」に書き留めている江戸や昭和のころの地名や建物の名前から、だいたいの位置は分かる。


 現代の地理で言うと、すぐ近くに六本木ヒルズがあり、また、今も昔も氷川神社がある。「江戸名所百景」には、この氷川神社の隣に「勝麟太郎」という家もある。「氷川清話」の海舟とご近所だったらしい。ヒルズの裏手に、一度だけ散歩したことがあるが「毛利庭園」がある。

 「殉死」ではこの上屋敷に元禄のころ、赤穂浪士武林唯七らが、事件後に押し込められたというエピソードが載っている。この小説は物騒なことに、最初と最後に、殉死と切腹が出てくるのだ。




(おわり)





雲は湧き 光あふれて  (2017年7月21日撮影)







































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