正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

連隊旗  (第134回)

 乃木さんの遺書には、「殉死」にも出てくるとおり、「その罪、軽からず」という一節があり、その続きに、罪とは「明治十年之役」で軍旗を失ったことだとある。私が子供のころは、まだ西南戦争関ケ原の合戦は、それぞれ西南の役関ヶ原の役と呼ばれておりました。

 明治10年西南戦争で、乃木希典連隊長は、軍旗を薩軍に奪われ、別の人に奪い返してもらった。それが死に値する罪であるという。それだけが理由ならば、彼の自決はむしろ殉死というより、それはタイミングはそのとおりだが、むしろ贖罪と呼ぶべきものではあるまいか。


 それにしても、ずいぶん前のことだ。漱石「こころ」の先生が数えたところでは、「三十五年」も苦しんできたことになる。この間、聞くところによると、何度も自ら命を絶とうとしたらしい。明治天皇に「死ぬな」という命令というかお願いというか、重い言葉をかけられて、耐えがたきを耐えることになった。

 こういう人の心中は私には全く分からないので、褒めるも貶すもしない。ただ、想像するに、乃木さんは本当に、旅順で戦死したかったのではあるまいか。何度も前線に出ていたというではないか。往復するだけでも危険な戦場である。死の覚悟ができているという程度のものではあるまい。


 この件は、司馬遼太郎も悩ませたはずだ。執筆した順でいうと、司馬さんはまず「殉死」で乃木さんの「人間」を描き、「坂の上の雲」では、もう「乃木の人間性については書かない」というような断りをし、それにしても、他の三人の軍司令官(黒木、奥、野津)と比べても、戦争以外のエピソードが豊富に出てくる。

 それでもまだ不足だったようで、次の長編「翔ぶが如く」でも乃木さんを書いている。興味深いのは基本的に、小説の登場人物としての乃木さんが、執筆のたびに若くなっていくことだ。司馬さんは殉死からさかのぼって、どうしても、その経緯なり心情なりを納得できるまで探り出したかったに違いないと思う。


 しかし、この試みは軍旗に関する限り、成功していない。「翔ぶが如く」では、小倉の連隊長乃木さんが、その連隊旗を失った顛末をずいぶん詳しく調べた形跡があるが、相互に矛盾する証言が幾つもあり、かなり信憑性の高い話が、乃木さん本人の談話と食い違っていて、とうとう真相は闇の中といった感じだ。

 その各種の証言とは、あえて大別すれば二通りあり、一つは乃木さんが、その連隊旗を託した部下が戦死して奪われたというもの。もう一つは、薩軍が乃木軍の去った後で、どこかの民家か何かの壁に、立てかけてあるのを見つけて持ち去ったというもの。


 連隊旗は後者の証人の家族から取り戻されている。その証人がすでに戦死していたというし、そもそも、いずれの現場にも乃木さん自身が居なかったことは共通しているので、大事な事柄なのに、決めつけようがない混乱がある。

 もっとも、司馬さん自身は、なんとなく文章表現からすると、後者の「立てかけてあった」ほうに真実味を、見ているような感じがする。これは私の主観なのかもしれない。

 現代人にとってみれば、戦闘に負けて旗を奪われるのは「武運拙し」であるが、もしも置いて逃げたとか忘れたとかいう話なら、「罪、万死に値する」と責任者が自責する気持ちは共感できます。いずれにせよ、推測の域を出ない。


 それより、問題は後世への影響だと思う。以下は因果関係など立証のしようがないので、あくまで私の感覚だけで申します。先の大戦で伯父が戦死したため、いろいろ調べ事をしているのだが、よく出てくるのが最後の突撃や自決の前の「連隊旗の奉焼」である。

 そこまでは儀礼としてなら分かるが、例えば、軍艦が沈んで連隊旗を抱えた士官が真っ先に救命ボートに乗り、畏れ多いから兵は乗るなと叫んだ、なんてエピソードを読むと、もう本末転倒じゃないかと思う。


 最近何かと話題の「教育勅語」も、空襲で焼けると校長先生が切腹したらしい。現人神からの頂き物を大切にすることを嗤うつもりはないが、破れたり燃えたりしたら、その瞬間に単なる布や紙なのであり、新しいものを作って再び大事にすれば十分ではないか。

 それなのに、官製品と人命が等価というのは、現代のまともな宗教ではない。こういう硬直した精神性の源流の一つに、乃木希典の殉死があるのは間違いないと感じる。もちろん、乃木さんの人柄や業績とは無関係だが、こういう忠誠心を軍事利用する連中がいたのだ。一応、過去形にしておく。



(おわり)




美濃国根尾谷の桜石  (2017年7月22日撮影)











































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