正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

教育者  (第135回)

 乃木さんは教育者になればよかったのにと思う。司馬遼太郎風に言えば、乃木の人生はそれ自体が劇であり、本人が脚本を書き、本人が主役を演ずる。周囲は助演者であり、その最たるものが妻お七ということになるだろう。二人の息子の死も、詩的、劇的になった。

 そして、周囲から常に観られていることを欲するし、気になる。秋山真之が軍靴を脱がずに、戦艦三笠のベッドで寝ているのは、考えているからであり、考えすぎて疲れているからでもあり、だらしがないからでもある。でも乃木さんが、ドイツ留学以降ひたすら、軍服を着たままで就寝していたというのは事情が違うだろう。


 自分に厳しいだけではなくて、その厳しさが、廻りの人の目にどう映るかも意識せざるにはいられない。乃木さんというお人は、そういうお方であり、往々にしてそれが感傷を伴い、文学になり、激情ともなって自他の命まで左右するほどになる。

 そういう自意識の強い性格だからだと思うが、乃木さんの写真は非常に多い。もちろん、相応に長生きしたし(明治天皇より少し年上だ)、特に日露戦争以降は、世界的英雄になったから、立派な写真がたくさんある。でも私が好きなのは、彼が学習院の院長先生を務めていたころのポートレートだ。顔つきが明るい。


 乃木さんは、西郷隆盛山岡鉄舟らとともに、明治天皇のお付きであったし、その明治帝のご意向だと思うが、後の昭和天皇の家庭教師でもあった。この師弟が最後に交わした会話は切ない。

 乃木さんの師だった長州藩玉木文之進は、乃木さんの遠い兄弟子にも当たる吉田松陰とともに、すでに鬼籍に入っているのだが「坂の上の雲」にも何度か名前が出てくる。この二人も教育者だった。それも単なる知育体育の教師ではない。全身全霊を鍛え上げる、相互に修行のようなところがある教育だった。三人三様、死に方まで歴史に残った。


 年上の大山巌東郷平八郎のような戊辰戦争の経験者は、そのまま軍人になった人が多く活躍している。他方で、江戸時代は武士の階級が唯一といっていい「読書階級」(司馬さんの表現)であり、インテリゲンチャであるから、政治、財界、学問、芸術と多方面に進出しているのだ。軍人が唯一の選択肢では無い。

 むしろ、年下でしかも「賊軍」だった秋山兄弟のように、「ただで入れる学校」に進み、そのまま軍人になるという人生を殆ど否応なく進まざるを得ない時代に移りつつあり、二人とも自分の適職がどうか悩んでいる様子がみえる。くりかえすが乃木さんは、選べる時代に、選べる藩で生まれ育った。


 司馬さんも、私の知る限り、あまり詳しく乃木さんの職業選択の事情を書いていない。簡単にいえば、当時の多くの薩長の若者と同様、藩閥の力を借りた。富国強兵の時代である。望めば叶う。

 しかし乃木さんは、司馬遼太郎児玉源太郎に言わせると、「戦さ下手」であった。野戦軍司令官には不向きという評価である。実際、乃木さんは軍人人生において、何度か休職している。那須の私邸で農夫をやりながら老いつつあった。しかし、地位と年齢がちょうどよい頃合いに、日露戦争の出番が来た。


 戦争は結果が及ぼす影響が甚大だし、特に陸海の旅順攻防戦は、現場そのものは放置しても立ち枯れそうな出城だったのに、バルチック艦隊が来るという理由だけで戦略的重要性が暴騰した。このため、その要塞を陥とした段階で、他の軍司令官より遥かに有名な人になった。

 さっそくステッセルと写真を撮っている。しかし、彼は幸せだったのかなあと思うことがある。そんなときは学習院時代の写真を見る。彼の師も松陰も、行動の人であった。その薫陶を受けて世に出た乃木さんとしては、最初から学校の先生という判断は無かったのだろうか。

 今回はまったく収拾がつかないまま終わります。ただ、司馬さんの好みという点からすれば、「坂の上の雲」に出てくる軍人のうち、文学の素養がある人を、作家だけあって好んでいるのは間違いない。広瀬、八代、真之。そして誰よりその作品が多く収録されているのは、乃木さんだ。




(おわり)





見えますか。バッタとカマキリです。
(2017年7月24日撮影)







































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