正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

那須野  (第136回)

 乃木さんは日清戦争に出征した。第一師団の旅団長として金州や旅順で戦っている。いずれも後に辛い地名になる。「坂の上の雲」には、ほとんどこの時期のことは出てこない。途中から第二師団の師団長になっているし、中将になっているし、活躍したはずだが。

 このあと台湾にも行った。子規も癇癪など起こして途中で帰国をしなければ、どこかで乃木さんと会えたかもしれないのだが、出会った様子はない。乃木さんはこのあと台湾総督になっている。前任者が桂太郎で、後任が児玉源太郎


 総督というのは、良く知らないポジションなのだが、きっと偉い。たぶん植民地の政治・軍事の全権委任に近いような権限を持っているのではないのだろうか。そういえば「坂の上の雲」のロシア極東総督アレクセーエフは、希代の悪代官のごとき人物として出てくる。

 そのあと日本に戻って、日露戦争でお声が掛るまで、また休職となり、栃木の那須に引っ込んだ。なぜ那須なのか知らない。敢えて想像すれば、ここは武芸に関して言うと、那須与一の出身地だ。古い地名である。いまなぜ御用邸があるのかも知らない。


 松尾芭蕉も来ている。「おくのほそ道」で、芭蕉とお付きの曽良は、那須で迷子になった。農夫に道を聞いたところ、この馬に乗って止まったら返してくれと親切にも馬を貸してくれたのであった。

 旅人が珍しいのか、子供が二人、芭蕉たちを追いかけてくる。うち一人は「小姫」(こひめ)で、この少女に名前を訊いたらしい。「かさね」という返事があり、芭蕉は余り聞かない名だが、やさしいと感動し、曽良に至っては一句ものにした。かさねとは大和撫子の名なるべし。

 ご一行は無事に人里に着いた。馬はそこで止まり、帰って行った。現状、AIでも無理な仕事である。芭蕉那須で会うべき人に会えたし、犬追物の史跡や那須与一所縁の八幡様をお参りしたりと充実コースを巡っている。途中、「那須の篠原を分けて」通ったという表現がある。


 乃木さんが台湾総督で苦労なさっているころ、病床の子規は「歌よみに与うる書」を世に問い、その冒頭、和歌は「万葉以来実朝以来一向に振い申さず候」と啖呵を切った。子規は源実朝の歌が好きだった。

 反響と言うか反撃と言うか、とにかく子規は手応えを感じたらしく、「歌よみに与うる書」が連載物になった。「八たび」の巻においては、罵詈雑言だけでは品位に欠けるため、「善き歌」を例示することになり、その筆頭に実朝をもってきた。

 武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

 ここでの「武士」は、もののふと読む。いいねえ、これ。写生そのものだ。芭蕉はまず間違いなく実朝の歌を念頭において、「那須の篠原」を文中に織り交ぜた。紫式部源氏物語で多用しているレトリックです。


 司馬遼太郎「殉死」によると、那須時代の乃木さんは多少の鬱屈があったようで、「案山子として晩年を終わるべし」が口癖だったと書かれている。ここでの「案山子」には、「かがし」とルビが振ってある。

 司馬さんは「新村出氏の『広辞苑』によれば」と前置きして、第一義である人の形をした鳥よけの意味に続き、転じて「見かけばかりもっともらしくて役に立たぬ人」という厳しい字義を引用している。さらに続きがある。「この那須退隠中に、歌がある」という前置きがあり、乃木さんの和歌が紹介されている。

 張りつめし案山子の弓はそのままに霰たばしる那須の小山田

 どうやら乃木さんも実朝がお好きらしい。そりゃあそうかもしれん。ご本人は宇多源氏の出、那須与一は源氏の武者、実朝は源氏最後の将軍である。那須を選んだのは、それかなあ。子規に見せたかった。「振い申さず候」などと評したら命はない。

 日露戦争が始まって、乃木さんが那須から呼び出されたころには、もう子規の命は尽きていた。那須には山田という古い地名もあり、乃木さんの歌に出てくる「小山田」もそのうちか。今年3月、那須では高校の山岳部が雪崩に遭って大勢亡くなった。合掌。

 1904年、乃木さんに辞令が届く。日露国交断絶の前日で、まずは留守近衛師団長になった。留守番は乃木さんのお気に召さなかったそうだが、やがて黒木軍と奥軍が快調に進軍し、第三軍編成の検討が始まった。軍司令官を選ばなければならない。



(つづく)



今年の夏、拙宅のバルコニーに降り落ちた雹
(2017年7月18日撮影)




































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