正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

緒戦  (第138回)

 南山の奥と旅順の乃木の軍に、多大な犠牲を強いることになった人物を代表で一人挙げるとしたら、コンドラチェンコ少将だろう。旅順はもちろん、南山の要塞を強化したのも彼だ。「坂の上の雲」に出てくる。文庫本第三巻の「陸軍」。

 ロシア軍は旅順港日本海軍の奇襲を受けたのに驚いた。「マリア祭」なんてやっているからだが、コンドラチェンコは戦略眼を持っており、金州・南山が敵の手に落ちると、満洲のロシア陸軍本体から旅順や大連が地理的に切り離され、孤立してしまうのを重視した。補給もできなくなる。


 開戦前すでに、コンドラチェンコは南山の強化を担当司令官のステッセルに申し出たと書いてある。ステッセルは金が無いと却下したが、日本軍の水雷攻撃に驚き、予算よりも保身のほうが大事とみえ、一転してコンドラチェンコに突貫工事を命じた。これが奥軍の大障壁になる。

 コンドラチェンコは日本にとって、日露戦争前半のロシア陸軍における最強の敵といって間違いあるまい。南山、剣山、旅順と後退しつつ反撃を絶やさない。西洋の軍学者が、「ナポレオンの真価は、フランス軍が負け始め、撤退戦に入ってからの国防戦指揮の見事さにある」と書いていたのを思い出す。二人とも砲兵の出身だ。


 この強敵が待ち構える遼東半島に向けて、乃木希典一行が広島の宇品を出航したのは、1904年6月1日。同6日に金州湾に上陸したと「殉死」にある。同地はすでに奥第二軍が占領しているから安心安全。この日、大本営では軍司令官の人数を増やす必要から、何名かの中将を大将に昇格させた。その中に乃木希典児玉源太郎東郷平八郎がいる。

 乃木さんたちが上陸した地点は、金州湾よりも細かい地名でいうと、大連北方にある「塩大澳」という(平塚柾緒著「旅順包囲戦」より)。この地名は、櫻井忠温著「肉弾」にも出てきた。同じ場所に上陸したのだ。「肉弾」は小欄の第86回から一休みしていたのだが、ようやく追いつきました。


 上陸日に階級章を付け替えた乃木将軍は、大連そばの「北泡子崖」(きたほうしがい)という位置に、新設の第三軍の司令部を置いた。乃木さんは急がないといけない。これは前回挙げた海軍の事情や、海上輸送の安全のためだけではないと司馬さんは追記する。満洲に早く駆け付けないといけない。

 第三軍について、日本側は想定外だった三個師団を新戦地に投入しており、さらに多数の大砲も抱えている。これを早く北に向かわせないといけない。結局、翌年の奉天になってしまうのだが、陸軍は早々に「8月19日」に旅順を陥落させるという予言的大本営発表をし、当日前後はプレス・リリースの準備までした。


 第三軍の編成にあたり、第二軍との師団の入れ替えや、新規の動員があり、それまで桜井さんの連隊を含む第十一師団(四国の善通寺)と、日清戦争のときに乃木旅団長も所属していた第一師団(東京)を、第二軍から第三軍に移した。加えて、金沢の第四師団も新たに動員された。一戸兵衛が来る。

 ちなみに、第二軍も別途、新着の師団を加えて、こちらは北に進んだ。前衛は秋山好古の騎兵第一旅団。信さんがコサック騎兵と初めて本格的に戦った得利寺の戦闘で、第二軍は南下を目指すクロパトキンを追い返した。


 これは大きかったはずだ。コンドラチェンコの懸念が実現し、間に奥と乃木がはさまって、旅順要塞は陸の孤島となった。ウラジオ艦隊も腰を抜かし、このあと半年以上も孤軍奮闘で、彼は旅順を守り、戦場に果てる。

 乃木さんは反対側の南に向かう任務を帯びている。幸い良港の大連は、ロシア軍が戦わずして放棄し逃げた。次は、遼東半島におけるロシア軍の最前線基地がある歪頭山と剣山を抜く作戦となった。6月26日、乃木第三軍の緒戦は歪頭山。わいとうざん。山頂が歪んだ形なのか。


 先陣は櫻井少尉が所属する善通寺の歩兵第四十三連隊。少尉にとっても連隊にとっても、初陣であった。善通寺といえば、弘法大師のお父様が開いたお寺。歪頭山は銃撃戦のうえ、一日で落した。

 比べて剣山は、それほど容易ではなかった。コンドラチェンコが来たからだ。司馬さんは軽く触れているだけだが、これは次の旅順が軽くなかったからだな。せっかく別の資料があるので、剣山の争奪戦も拝見します。




(おわり)




ヒグラシ蝉  (2017年7月22日撮影)







































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