正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

一休み  (第141回)


 これから旅順総攻撃が始まるので、その前に一息入れたくなった。写真はうちから電車ですぐの隅田川に近い都の東北。上の石碑は、私の身長より遥かに高くて、3メートルぐらいある。下がそのそばにある案内板。



東京都荒川区熊野前にて撮影  (2017年9月16日撮影)



 徳川好敏さんは文中にあるとおり、日本で初めて飛行機で飛んだ人らしい。水戸の徳川家(いまの東京ドームあたりにお屋敷があった黄門さまの後胤)の出身で、母方は、後に乃木さんが連隊長になった小倉の小笠原家。この一族は、伊予松山の久松家とも血縁のある松平ファミリーだ。地理的にも近い。

 おそらく、病床の秋山真之に瀬戸内海の海賊の本を貸してくれた小笠原長生さんは、真之と殿様つながりで仲が良かったのだろう。小倉の第一二師団は強兵で、すでに話題にしましたが、黒木の第一軍とともに日露陸戦の先陣を切った。


 それより、下の説明版の主人公、杉野治義さんは、27歳の若さで航空事故死した陸軍中尉とある。まだ初期(大正年間)の航空機で、突風に耐えられなかったか。出てくる地名は陸軍ゆかりのものが多く、代々木練兵場は今の代々木公園、下志津には今も陸自があり、所沢には航空公園。埼玉では入間基地でも、むかし悲しい事故があった。

 ただ一人の事故のため、かつてこの国はここまで力を入れていたのだ、石碑を立てたのは地元(尾久村は、この石碑がある荒川区の町の一つ)の在郷軍人会で、いまも熊野前の商店街が、周辺をきれいに整えている。


 司馬遼太郎が「坂の上の雲」で乃木・伊地知を酷評していることについて、今でも書籍やネットで一所懸命、反論している方々が少なくない。嫌いなら嫌いでいいが、その人の小説をネタにして、金儲けや売名行為や憂さ晴らしをするのは品が無いと思う。

 司馬さんの論点は、戦さが下手だとか、臆病だ怠慢だというのは二の次で、文庫本第四巻「旅順」に出てくるように、「現実の戦闘においては無能であるがゆえにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追い込むことになる」からだ。ドラマのようにカッコよく美しく死ぬとは限りませんからね、戦争では。



(おわり)



石碑の近所の公園にて  (同日撮影)







































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