正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

砲弾が足りない  (第144回)

 戦車や戦闘機が登場するのは、約十年後の第一次世界大戦のときで、また、日露戦争時に信さんが注文した「機関砲」という名で「坂の上の雲」にも出てくる機関銃が、本格的に使われ始めたのも一次大戦のときだそうだ。

 日露戦争の火器は、大砲、小銃、地雷、機雷といったものが出てくる。特に、陸海とも大砲の威力が圧倒的だったのは、私でも旅順や奉天対馬沖の記録を読んでいると実感する。


 1904年5月26日、奥保鞏の第二軍が金州・南山を五時間にわたり砲撃した際、砲兵指揮官の内山少将が計算したところ、日清戦争で使った全砲弾量を少し超えてしまって青くなったと「陸軍」の章(文庫本第三巻)に出てくる。

 日露両軍は金州から旅順にかけての攻防戦を、陸軍だけで戦ったのではない。海軍も随分と貢献している。金州の場合、遼東半島の北側から連合艦隊の砲艦「赤城」、「鳥海」や水雷艇隊が、あいにくの干潮だったものの喫水線ギリギリまで陸地に接近し、ロシア軍の要塞を砲撃した。相手も応酬した。


 先に砲弾を撃ち尽くしたのがロシア軍で、奥軍が本格的に前進を始めたのは、そのあとである。以上、平塚柾緒著「旅順攻囲戦」に拠る。日本軍もこの先ひたすら弾薬の不足に悩み続けたのは、「坂の上の雲」にも随所に出てくる。

 旅順要塞の砲撃のすさまじさは、海軍が経験済みのことだった。三か月ほど前の2月9日、海軍は旅順港水雷攻撃を試みたが、敵軍が「マリア祭」で盛り上がっているのに、上手くいかなかった。宣戦布告の前日であり、のちに真珠湾攻撃のとき、「またジャップめが」と言われた。


 この旅順口外の海戦のときは、フォン・エッセンの巡洋艦「ノーウィック」がウロチョロして困らせ、さらに、旅順要塞の大砲が火を噴いて、日本の艦隊に「びしびし」と当たったと「旅順口」(第四巻)の章にある。このあと広瀬を沈めたのも、同じ要塞だ。

 また、金州ではロシアの海軍も、日本陸軍に砲撃を仕掛けてきた。海も陸も砲戦になった。このため、海軍は乃木さんの第三軍が展開を始めた際、海軍の重砲を提供している。


 この件も、すんなりと運んだわけではないらしい。第四巻「黄塵」によると、満洲総司令部や乃木軍が日本を出発する前の大本営の会議で、陸軍の山下源太郎大佐(開戦の封密命令を東郷さんに届けた人だ)が、海軍砲兵隊を「なしうるかぎりお貸ししたい」と申し出た。バルチック艦隊が来るのだ。

 この席にいた陸軍の松川・伊地知の両参謀は、謝意を示しつつ断った。しかし、先述の剣山を攻めるころには、金州・南山の話も伝わっており、第三軍も「しぶしぶ」受け取ったとある。海軍は黒井悌次郎中佐を長とする海軍陸戦重砲隊を陸に揚げた。


 この隊は後に大いに活躍することになる。私は乃木・伊地知の首脳陣が黒井中佐あてに、旅順攻囲戦中に出した書簡を何枚か読んだことがある。ともあれ、乃木さんは機関砲の音を知らなかったというし、砲撃は「専門家」任せだったとあり、特に後者が司馬さんの怒りを買っている。乃木さんは、殺し合いには向かないのだ。

 「乃木軍のしごとがもっともはかどったのは、旅順の全面にある小要塞群を一つずつ潰していたころだった。これらは簡単に陥した。」と「旅順」の章にある。そして、8月16日のステッセルへの降伏勧告の話題に続く。


 しかし、その前に大本営では「乃木では無理だった」という評価がすでに出ていたとも書いてある。実際、この8月16日までの前哨戦で、第三軍はすでに多数の死傷者を出した。上記の「簡単に」というのも、このあとの旅順総攻撃に比べればの話だ。

 例えば、8月上旬に大孤山・小孤山を占領した四国善通寺の第十一師団は、その攻撃に加わった「肉弾」の櫻井忠温中尉(このころ少尉から昇格)によると、「ノーウィック」らの艦砲射撃まで受ける激戦となった(このウラジオ艦隊は、連合艦隊が途中で追い払っている)。

 旅順総攻撃の前に、この師団だけで、「一ケタ違う」と疑われた金州・南山の死傷者を超えたそうだ。そもそも認識が甘かったのは大本営です。そこで、本土防衛どころではないと主張するアリサカ・ライフルの有坂さんと、ヒゲの長岡次長の合議がまとまった。二十八サンチ榴弾砲が送られることになる。




(おわり)



 


台風一過の夕暮れ  (2017年10月23日撮影)




































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