正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

海軍陸戦重砲隊  (第145回)

 今回と次回は、1904年8月19日から始まる第一回の旅順総攻撃の前哨戦に関する話題。今回は、前回の途中で触れた黒井悌次郎中佐が率いる海軍陸戦重砲隊についてです。

 旅順攻囲戦は、司馬遼太郎も主に陸軍の資料を基に書いたはずで、このためか「坂の上の雲」には、この海軍の砲兵隊についての記述が少なく、しかも飛び飛びに出てくるので印象に残り辛い。最後に「いいところ」を二十八サンチ榴弾砲に持っていかれた観もある。


 最初に、文庫本第五巻の巻末にある地図をみる。私は地図が好きなのだ。中でもこの「旅順要塞図」は見ごたえがある。真ん中に旅順港がある。湾岸の東側(地図では右)に旅順の旧市街、北側に新市街がある。

 この新旧の違いが良く分からないが、上海の租借地のような経緯であるならば、旧市街がもともと地元の中国人が暮らしていたところで、新市街が三国干渉のあとで露助(失礼)が乗り込んできて作った町かもしれない。

 ただし、旅順艦隊が碇泊しているのは「東港」であり、この旧市街に近い。後述のとおり、日本の砲撃も、旧市街と東湾を狙っている。なお、地図の南側が黄海、北東に遼東半島が伸びている。


 この旅順市と港湾を守るような形で、北東側に並んだ山々に、旅順要塞が構築されたのだ。その中心となる砲台陣地がある「望台」まで、地図の縮尺でみると、旧市街地から3㎞ぐらいしかない。意外と近いのだ。でも、その外側からも海からも、市街や港湾がほとんど見えない。

 仮に良く見えていれば、少なくとも海軍の要望であるバルチック艦隊到来前の、旅順艦隊の殲滅は、もっと前に結果が分かったはずだ。これほどの屍山血河の惨状を招くことはなかったかもしれない。


 「かもしれない」としか言えないのは、陸軍にしてみれば、この先、第三軍は北上して満洲の本軍に合流する必要があり(実際、遅れてそうなった)、背後の敵は叩きのめしておかないといけないだろうと思う。

 そうだとすると、この北東部にある旅順要塞こそ、敵陸軍の総本山なのだから、真っ先に真正面から攻撃したこと自体は、細かいところはともかく、決して大間違いの作戦ではないはずだ。問題は、上手くいかないのに同じ方法を繰り返して、人命と砲弾と時間を無駄にしたことだと司馬さんは言う。


 その旅順要塞にある山々は、地図によると望台の西から順に松樹山、二竜山、盤竜山、望台から東に東鶏冠山、北斗山と並んでいる。その北西側(旅順湾の北方)に、水師営の町がある。その水師営の手前で曲がるのだが、旅順から大連方面に向かう鉄道が敷設されている。

 途中に柳樹房という場所がある。総攻撃の直前まで、第三軍が司令部を置いていた。出張してきた児玉源太郎が伊地知参謀長と怒鳴り合ったところ。また、水師営から北に向かう道沿いに、土址子という地名がある。同じ日、乃木さんが児玉の来訪を待っていた場所だ。

 
 さて、地図ではこの土城子に至る途上に、「海軍陸戦重砲隊」と書いてある。黒井中佐らは連合艦隊の一員であったが、陸軍が受け入れを決めたため、重砲や砲兵と共に、船を降り大連に上陸して、大雑把にいうと砲台もないから砲身だけ担いで歩き、ここまで来たそうだ。砲は43門もあった。しかも、いいタイミングで来た。

 文庫本第四巻「黄塵」には、「八月に入った。日本の第三軍の攻撃は依然として功を奏しないが、ただそれに所属している海軍重砲が威力を発揮しはじめ、その砲弾ははるかに旅順市街に落ち」ということになり、「ウィトゲフトはいよいよ出ざるを得ない状態になった」。


 出ざるを得ないというのは、それまで引きこもっていた旅順湾内で、陸軍兵に出て行けとまで言われても鎮座していたのに、このままでは艦隊が大砲に撃たれっ放しで壊されてしまうため、湾外に出ていかざるを得なくなったのだ。

 ウラジオストクに移るつもりだった。しかし外海には連合艦隊がお待ちかねで、黄海海戦が始まる。旅順艦隊は、その一部がボロボロになって旅順に戻り、追い出そうとしてきた陸軍兵を後悔させたとある。ウィトゲフト司令は、帰ることすらできなかった。黄海海戦はのちに別途、話題にします。


 上記の重砲隊砲撃の場面は、平塚柾緒著「旅順攻囲戦」に詳しい。海軍の砲撃が始まったのは、8月7日の払暁で、9日まで続いた。戦艦「レトウィザン」に砲弾が命中し、10日にウィトゲフトが出ていく。火薬庫・貯油庫が爆発し、市街地も火災で大恐慌になったとある。

 旅順攻囲戦は、日本の第三軍と、旅順要塞の野戦という感じで書かれているものが多い。ただし、旅順要塞は荒野の独立戦闘拠点ではない。この旅順市にある軍事や行政の諸施設や住民を守る責務もある。ミッドウェーではなく、真珠湾に似ている。例えば、軍人の家族も住んでいる。


 例の「マリア祭」の主役は、海軍のスタルク司令官(マカロフじいさんの前任者)の妻マリアだったし、陸軍の司令官ステッセルの官邸もあって、彼の妻も住んでいる。おまけに、マリア祭の晩は極東総督の悪代官アレクセーエフも旅順市内に居て、宴たけなわであった。

 湾岸に砲弾が届くところまで日本軍が来ているというのは、一般人にとっては恐怖だ。のちにステッセルは一人で勝手に降参してしまうのだが、彼自身が要塞に立てこもっていないから、そういうふうに弱腰になったのかもしれない。


 黒井中佐は、文庫本第五巻「海濤」の章にも出てくる。二〇三高地を今度は本当に占領し、戦闘の帰趨も見えてきた段階で、連合艦隊はいったん日本に戻り、兵を休め、船の手切れをすることになった。

 帰国の挨拶のため、東郷平八郎は龍樹房に乃木希典を訪っている。真之も同行した。その際に、東郷さんは「クロイ」ほか海軍陸戦重砲隊の慰労もしたそうだ。まだ戦闘中である。彼らを残して去らなければならない。


 その文中に、「十一月三日には黒井悌次郎はおもしろい試みをしている」という記載がある。この日付は天長節、今でいう天皇誕生日。海軍のこの日の祝砲は32発という決まりだが、今は陸軍の所属だからということで、黒井さんは陸軍式に101発も撃つことにした。しかも空砲ではなく、実弾を敵地に向けて撃ったというから凄い。

 しかも三砲台を使って、303発を撃ち込んだらしい。もっとも、まだ第三回総攻撃の前だから、二○三高地も敵要塞のままで、旅順市街の様子は詳しく分からない。そこで地図を101の碁盤の目に仕切り、その一つずつに一発お見舞いした。旅順方面に大火災が起き、天を黒煙が覆ったとある。


 東郷さんは、その砲台群まで陣中見舞いに出かけている。黒井隊長は、道に出てお迎えをした。東郷司令長官は黒井中佐に「ご苦労でした」と過去形で言い、ついで「まだ後があるな」などと言って帰っていく。

 お互い無口な乃木さんと、静かに食事をとり、三笠に戻って大本営に、旅順封鎖作戦は終了という電報を打った。さて、次回は陸軍の前哨戦。こちらも大事な展開だったと思っています。




(おわり)





今年も美味しいお米がとれますように
(2017年9月21日撮影)





























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