正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

高崎山  (第146回)

 当初は固有名詞がなく、二〇三高地と同様に海抜を示す「一六四高地」と呼ばれていた小さな山は、「高崎の歩兵第十五連隊がおびただしい出血の挙句に奪取した」(「殉死」)ため、高崎山と名付けられた。



 前回も引用した「坂の上の雲」文庫本第五巻の巻末地図「旅順要塞図」にも、高崎山が載っている。ただし、旅順要塞や第三軍の陣地がある旅順の北東方面(この地図の右側)ではなく、水師営の西方(地図の左側)にある。

 
 第15連隊は、高崎市のサイトにも紹介文があるように、日清日露、先の大戦と連戦・激戦の功労者だ。日露戦争では、最初のうち奥の第二軍にあって南山・金州で戦い、次に乃木の第三軍に編入されて、旅順や奉天で戦った。さぞかし、強かったに相違ない。

 高崎市は何度も電車で通過したことがあるが(拙宅の近くを高崎線が通っている)、確か未だ駅から降りたことがない。関東平野の北東端にある交通の要所、すなわち遼陽や奉天と同じく「衢地」である。ここで中山道は、北陸に向かう三国街道と分岐する。今では北陸新幹線上越新幹線も、ここで別れる。

 要地ゆえ、陸軍も早くから連隊を置いたのだ。ちなみに、高崎、舘林、前橋といった群馬県の平野部あたりは、夏場の関東の気象情報によく出てくる。最高気温の産地なのだ。


 第15連隊が高崎山を強襲したのは、第一回旅順総攻撃の直前で、1904年8月15日である。この翌日、乃木大将は主将ステッセルに降伏文書を届けた。明治天皇より、文民を害すことなかれという趣旨の報が届いたためであるらしい。ステッセルは鼻で嗤って拒絶した。そこで19日に総攻撃の開始となる。

 改めて上記の地図を見よう。高崎山から、旅順の新市街や港湾まで、直線距離で5㎞ぐらいだろう。ほぼその真ん中に、二〇三高地が載っている。つまり前哨戦での乃木軍は、北東側の旅順要塞の正面攻撃だけを行ったのではない。第ニ回には、二〇三高地も攻めた。ただし、失敗している。


 高崎山は上記の占領のあと、「殉死」によると東京の第一師団および旭川の第七師団が、そこに司令部を置いた。高崎の第15連隊は、この第1師団に属している。一方、第7師団はあの薩摩じいさん大迫尚敏が師団長を務める新着の増援軍であった。えらいところに配属になったのだ。

 第三回総攻撃のとき乃木と児玉は、文庫本第五巻「二〇三高地」によると、土城子ちかくの粉雪舞う路上で出会い、馬で移動し高崎山に向かった。柳樹房に戻ると、児玉としては、「あいつ」(伊地知)がいるし、それにどこか二人きりで重要な話をしなければいけない用件があった。


 高崎山を選んだ理由は、推測ながら、ここに第一師団と第七師団があって、比較的安全だろうし、後述のように、そのまま作戦行動に移れる。乃木さんは第一師団の第一旅団長(東京)として日清戦争に出ており、児玉源太郎も鎮台時代に第一師団の第二旅団長(千葉の佐倉)だった。

 また、このあと児玉と大迫が会話したり作戦を練ったりしているのも、同じ場所にいたからなのだ。大迫は、ここから第1と第7の両師団の数が減った兵を率いて二〇三高地に向かうことになる。


 整理すると、第三軍は旅順に向かう際、中央を金沢第九師団(一戸兵衛がいる)、左翼を善通寺第十一師団(櫻井忠温がいる)、左翼を東京第一師団(乃木さんの次男がいる)が進んだ。この左翼が高崎山を落し、第七師団も加わって二〇三高地を落した。遠回りなので、補給が大変だったらしい。

 さて、少し先走るが、二〇三高地を占領したときに、児玉源太郎が電話を架けた場面が名高い。そこから旅順港が見えるかという質問に、良い答えが返ってきた。このときの児玉は、高崎山にいる。


 その前に、第三軍の参謀一同と大喧嘩のような作戦会議というか一方的命令をしたときに、重砲を二〇三高地に集中せよと告げた。後日、彼らを引き連れて前線に出たとき、「二十八サンチ榴弾砲をもって、二〇三高地の山越えに旅順港内の軍艦を撃て」と砲撃担当の豊島参謀に命じている。

 最後にもういっぺん、巻末地図「旅順要塞図」をみる。地図記号の中に、画鋲のようなマークがあって、説明の箇所には「28㎝榴弾砲」と書いてある。この記号の位置は、主に二か所に集まっており、一つは旅順要塞の北東側、もう一か所が高崎山。第一師団から選出された白襷隊の仇を討った。




(おわり)




拙宅からみた御来光  (2017年10月3日撮影)












































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