正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

旅順総攻撃の始まり  (第149回)

 旅順要塞の攻囲戦が始まったのは、1904年8月19日の乃木軍司令官による総攻撃命令からだ。この日付は、以前に触れたように大本営側の意向が働いており、記者会見まで準備していたらしいのだが、ともかく日本軍全体が急いでいる。

 バルチック艦隊の来襲は、早ければこの年の10月になるだろうという観測もあって、「十月説」という言葉が「坂の上の雲」にも出てくる。それまでに、連合艦隊は船の整備を済ませておきたい。そして乃木第三軍は、7月末までに旅順要塞の手前まで迫った。力が入っただろう。全軍総攻撃。


 当然のことをいうと、「坂の上の雲」は日露戦争全史ではない。作者が早々に、主人公はいわば明治という生まれたての近代国家であり、ともあれ若者三人のあとを追わなければならないと書いているような小説だ。その三名のうち、子規は早々に死ぬ。

 残る秋山兄弟は、日露戦争の緒戦から終戦に至るまで、殆どの戦場に立っているため、それらを詳しく描いているのは自然であるとして、二人とも直接は関わっていない旅順攻囲戦の記述が異様に多く、また、他と比べ感情的になっている。言葉遣いが粗い。


 私は親戚や祖父の工場で働いていた若者を、何人も太平洋戦争で亡くしているので、心底この戦争を憎んでいる。母方も父方も、自宅と職場の両方が空襲で全焼し、彼らの写真一枚、残っていない。

 日本には大戦争をやる資格もないし、勝てる能力もないと考えている。戦時外交ができない。鉄も石油もゴムもない。いまや食糧の自給もできない。早期に戦争を終わらせる決断も工夫もできない。これらが先の大戦からあと、改善したとは到底思えない。

 それを証明してみせろと言われても、資源以外のことは困るが、もう大丈夫だから安心したまえと言われても、もっと困る。


 ところで、司馬遼太郎は自身が巻き込まれただけあって、私以上に先の大戦を憎んでおり、とはいえ当時は時代が時代だけに、戦友や遺族も多々存命しているから、表立って生々しくあの戦争を批判し切れない。

 司馬さん本人が、100年くらいしないと「歴史が生乾き」なので、言いたい放題というわけにはいかないという趣旨のことを講演で語っている。ちなみに「先の大戦」というのは今上の常套句で、生乾きだから「大東亜戦争」などという、私も含め聴く側が不愉快になるような言葉はお使いにならない。


 以上を前提に、以下は私の想像として既に書いたことだが、司馬遼太郎にとっての乃木・伊地知は、先の大戦批判が形を変えた攻撃の対象になっているはずだ。そうでなければ、この小説でこんなに激しく叩かれていることの説明がつかないと思う。

 私には彼らが無能であったかどうかとか、作戦が適切であったかどうかは判断のしようがない。半年に満たない局地戦で、死傷者の数が膨大であることに驚くばかり。

 これから、戦闘の経過を詳しく追うことはしないが、少し申し添えたいことなどがあるので、これから「坂の上の雲」を読む人たちのために、ちょっとでも役立てたらいいなという野望を抱えつつ、書き進めます。


 第一回旅順総攻撃は、「坂の上の雲」文庫本第四巻の「旅順」の章に、戦闘の帰趨という意味では、わずか6行の記載があるに過ぎない。すなわち、もっとも強靭な盤竜山と東鶏冠山を選び、中央突破を狙ったが、小塁一つ抜けなかったという。損害に関し、敵は軽微、日本軍は死傷15,800人。

 第一回で乃木軍が攻めたのは、「強靭な盤竜山と東鶏冠山」だけではないはずだ。これについて、既に何回か前に言及した文庫本第四巻の巻末地図「旅順・大連・金州方面図」には、第三軍が北側(右翼)、中央、南側(左翼)に分かれて進んでいるように見える矢印が示してある。


 特に、右翼が進んだ北側は、地図を見ると比較的、高地が少ないようで、正式名かどうか知らないが、この北側を通って水師営から南下し旅順に至る道を「旅順街道」と書いている資料をときどき見かける。

 この三本の矢印は、そっくり同様のものが平塚柾緒「旅順攻囲戦」の第3章に掲載されており(以下の記載もこの資料に拠る)、こちらはより具体的で、旅順街道の右翼は東京の第一師団、中央は金沢の第九師団、左翼が善通寺の第十一師団と明記されている。

 
 この三師団の位置関係は、基本的に最後まで変わらない。そして、確かに中央と左翼の両師団は、盤竜山や東鶏冠山の正面攻撃を担当しているが、北から攻めようとした第一師団は、第一回総攻撃において後備歩兵第一旅団とともに、旅順新市街の北北西にある(つまり遠回りして)、一七四高地を攻めた。

 その記録にいわく、「首飛び、腕舞い、悲惨の状」、戦死者続出の乱戦の末、これをようやく占領している。しかも、この占領部隊は戦場で孤立してしまい、このあと約ひと月、援軍も食料補給もないまま留め置かれた。


 なお、仮にこの高地の先に進めば、水師営二〇三高地があり、実際、第一師団は第二回総攻撃で、これらを攻める。兵力分散したためか、両方とも落ちなかった。

 司馬さんは第一回の戦場を北東方面に集中させて書いているが、第三軍は旅順北方も攻めており、言い方を換えれば、ロシアの要塞は北側も強靭だった。砲弾を撃ち込んで、歩兵が突撃するという方法だけでは、旅順は容易に陥ちない。夜襲しても駄目だった。

 遠く旅順の西まで回り込めばよかったのにと私は思うのだが、この素人考えは甘くて、日本軍も検討したらしいが、兵站が伸びきって補給が困難という事情で断念したらしい。昭和になると、こういう判断すらしなくなる。長くなったので、中央と左翼が担当した盤竜山や東鶏冠山は、次回に続けます。



(おわり)




上野公園ではケヤキの葉も
徐々に色づき始める季節  
(2017年11月3日撮影)














































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