正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

海抜203メートル  (第151回)

 かねがね不思議に思ってきたのですが、なぜ二〇三高地には「盤竜山」のような固有名詞が無く、標高だけの表示になっていたのかという、この人生に関係はなさそうですが、気になる点です。以下、例によって目の醒めるような結論は出ませんが、調べた記録は残したい。

 そもそも、盤竜山などの地名は誰が付けたのか。漢字ですから中国人か(清の時代なら清人も含む)、そうでなければ日本人。経緯を調べる余裕はないので、現在どうなっているか見ます。次のサイトは大連市のもの。現在の行政区画でいうと、旅順は大連市の旅順口区になっている。URLにあるように国のサイトです。
http://www.dllsk.gov.cn/lskdetail.asp?newsID=20954&classid=4


 左の欄に字体が少し異なりますが、「旅順地図」がある。ここに進むと地図が出てきます。真ん中に白抜きで「旅順口区」とある。これを拡大していくと、まもなくその南に、旅順港の姿が見えます。

 「旅順口区」と書いてある地点は、水師営の町で、これまで「旅順街道」と書いてきた南北の大通りは「水師営街道」になっています。追って記載しますが、第三軍の右翼・第一師団は、この街道沿いに進もうとしたのだと思います。大きな十字路がある要所。乃木司令官と降将ステッセルがここで会ったのも、こういう地理的な事情もあるのではないかと思う。


 北が上の地図という前提で、以下、上下左右を使います。水師営から下の旅順港に向かう道の右側に、私でも読める範囲で、松樹山、二竜山、盤竜山、望台、東鶏冠山の堡塁や砲台の表示が、旅順市街の上から右(北東方面)を囲むように並んでいる。司馬さんのいう要塞の「中央」、「正面」です。

 今も使っている地名であるということは、日本軍がつけた名前ではなく、元からの地名だろうという想像が働きます。日本が日露戦争時に命名した剣山や高崎山の名は見つからない。

 
 では二〇三高地はどうか。思い切りズームアップすると、松樹山や水師営の左下の緑地に、「二零山高地景区」とある。ちなみに、Googleマップでは、「203高地」になっている。表記が異なりますが、意味は同じようなもので、いずれも標高はすでに固有名詞化しています。

 ちなみに英語では、「The 203-Meter Hill」など。ボストン美術館小林清親(浮世絵師)の戦争画があります。1905年の元旦、ステッセル将軍から開城を伝える使者が送られてきたところ。
http://www.mfa.org/collections/object/great-battle-for-the-occupation-of-the-203-meter-hill-dai-gekisen-nihyakusan-k%C3%B4chi-senry%C3%B4-130014


 以上から類推するに、もともとこの高地には固有名詞がなかったか、あったけれども日本軍はそれを知らなかったかの、いずれかではないかと考えました。根拠はありませんが、後者のような気がする。

 旅順市と二〇三高地は、地図でみても写真でみても、お互い近いし、間に山もない。直線距離でいうと、かつて住んでいた八王子から、よく登った高尾さんまで、10キロ以上ありますが、旅順市と二〇三高地はその半分程度しかない。すぐ郊外にある山です。


 しかも、決して他と比べ、低いわけではない。第47回に登場いただいた観戦員の志賀重昂さんの「旅順攻囲戦」によれば、付近の山々は百メートル台ばかりで、隣の松樹山は「一○○米突」(100メートル余り)と、なお低い。さらに、旅順北東部の連峰から離れており、行ったことはないが、それなりに目立つはず。現地名くらい、ありそうです。

 それなのに、なぜ、「何とか高地」のままで攻撃に入ったのかを想像するに、同じ状況だった剣山や高崎山と同様、ロシアの要塞の中核ではなく、その前線基地だったからではありますまいか。それは地図で見ても分かる方には分かるだろうと思いますが、補足します。


 剣山や高崎山は山頂からの見晴らしもよく、また、旅順要塞に至るまでに落すべき対象とみたから、本番前に攻めたはずです。つまり戦略的な価値がある。二〇三高地は、高崎山水師営→旅順のルートを順調に進めたなら、遠回りする必要のない場所であるように思えます(強力な敵軍がいなければという前提ですが)。

 そう考えれば、第一回総攻撃は正面突破が主たる作戦ですし、第一師団も高崎山占領だけで大きな損害が出たので、その先は進まずに終わり、第二次総攻撃になって水師営二〇三高地への進撃が加えられたのも、自然な発想のように感じます(司馬さんは、第一回で旅順は取れたのではないかという趣旨のことを、「あとがき 四」で述べていますが)。むしろ問題は、後述しますが、そのあとの展開にある。


 なお、占領後に、二〇三高地にも和名を付けようという議論はあった。これは上記の志賀さんの本にも出てくるし、「坂の上の雲」文庫本第五巻の「二〇三高地」にもある。志賀さんご自身は「旅順富士」を提案したが、結局、軍司令官ご発案の「爾霊山」と決めた。

 しかし、中国側はもちろん、日本軍内も世界的にも、「なんじの霊」が受け止められていないのは、語感からして止むを得ないように思います。それに第三軍は、旅順に長居できないから軍事拠点のための新しい名は不可欠ではないし、死んでいった兵がみな「二〇三高地」と呼んでいたことだしと志賀さんも書き遺しています。長くなったので続きにします。



(つづく)




 
神田川にかかる万世橋。かつて麓に、広瀬と杉野の銅像があった橋です。
(2017年11月15日撮影)















































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