正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

第二回総攻撃の始まり  (第154回)

 第二回の旅順総攻撃は、1904年9月下旬の前半と、同年10月下旬の後半にわかれる。第一回総攻撃から3週間ほどの間が空いたのは、一因として「正攻法」に変えたためだろう。すなわち、要塞近くまで坑道を掘り、歩兵がそこまで前進できるようにする。また、いきなり歩兵突撃をせず、まずは砲撃から始める。

 正攻法の件については、第一回のあとで大本営から来た戦況視察の海軍中佐に、乃木司令官が語った言葉として、文庫本第四巻「旅順」の章に描かれている。「突撃はご覧のように失敗しました。これ以上、無理攻めはできませんから、あとは正攻法をとることにしました」。


 もう一つ、第一回との違いは、二〇三高地を初めて攻めたことで、これは「旅順」の章に「第一師団の参謀長」が参謀会議のときに献策し、伊地知参謀長が「では、第一師団に余力があればやってもいい」と応えている。司馬さんによれば「あくまで助攻であった」。

 「旅順総攻撃」の章にも同じ話題が出てきており、9月19日に第一師団のわずかな兵力で攻めて失敗。かえってロシア側に、それまで山腹に散兵壕が存在する程度だった同高地の重要性を敵に教えたような結果となった。作者の評価は、「乃木軍司令部がやった無数の失敗の中で最大のものであったであろう」と辛らつだ。


 もう少し具体的な記録をみると、いつもの平塚柾緒「旅順攻囲戦」によれば、坑道を掘り始めたのが9月1日、掘り終えたのが17日、上記のとおり翌々日の19日に総攻撃命令が出た。またも多数の犠牲者を出し、中止したのが22日。わずか四日間。

 二〇三高地の攻略を担当したのは、第一師団の後備歩兵第一旅団で、いったんは二〇三高地の一番下の塹壕と、第二堡塁を奪ったとある。ところが、そのすぐ東隣にある海鼠山(なまこやま)から露軍の激しい砲撃があって、撤退のやむなきに至った。


 この海鼠山では、第三回の総攻撃のとき、司令官の次男、乃木保典少尉が戦死した激戦地。この旅団は第二回の9月前半戦において、「三百人に満たない数になってしまった」。旅団長も戦死。

 これで懲りてしまったのだろうか、10月の後半の戦いにおいては、第一師団は要塞の正面西側にある松樹山に向かい、二〇三高地は攻撃目標から外されている。第三回で再び攻めたのは、旭川の第七師団が到着して(11月20日大連着)、これを二〇三高地に向かわせたと「旅順総攻撃」の章にある。


 この9月と10月の間に空白期間があるのは、日本での砲弾製造が追いつかなくなり、「沙河」の章によると、大本営から、旅順で使う重砲弾の生産に集中するため、10月15日までは野砲・山砲の弾は送ることができないと児玉総参謀長のところに連絡が来た。すでに序盤の南山において、第二軍が予想外の消費をしている。

 翌10月16日に、旅順の伊地知参謀長から、もっと砲弾を送れという督促電が来たというから、伊地知さんも間が悪い。この工業力の不足という点は、まだ発展途上国というべき大日本帝国にとって、日露戦争時に世界一のロシア陸軍と戦ったときも、太平洋戦争で英米を敵に回した際も、どうにもならない足かせになった。


 間が悪いと書いたが、これは次の件と関係があるのかもしれない。旅順と沙河で日露陸軍が対峙していた10月15日、ロジェストウェンスキーバルチック艦隊がリバウ港を出て、その速報が10月16日に日本軍に届いた。

 砲弾不足であっても、10月26日に第二回後半戦を始めたのは、この報に接して急を要すると考えたのだと思う。それに、二十八サンチ榴弾砲が日本から届いた。9月中に六門、効果ありと判断して最終的には十八門になった。


 「沙河」の章によれば、この第二回総攻撃が始まったころ、すなわち9月中旬から約20日間、児玉源太郎による最初の旅順行きがある。満洲のロシア陸軍は、奉天にあって依然、健在である。日本側は砲弾がない。

 弾薬のかわりに、仙台の北で金山が発見されたというニュースが来て、これで軍費もたすかると参謀たちは喜んだが、大山巌に「桂サンの落語」と一笑に付されている。そういう時機に、児玉は何をしに旅順にいったのか、「坂の上の雲」にも書いてないし、今だに私もよくわからない。でも次回、考えます。



(おわり)



仙台平野より、遠く金華山を望む。
(2017年11月13日撮影)














































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