正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

「旅順攻囲軍」 (第155回)

 「旅順攻囲軍」は書籍の名。著者は志賀重昂。「坂の上の雲」文庫本第五巻の「二〇三高地」に、「観戦員」として出てくる。本来は地理学者で、ただしこの時期は日露戦争の従軍記者として旅順にいた。彼の従軍記事のうち、旅順攻囲戦の箇所を商業出版したのがこの本で、その動機は地理調査費の募金。本文の前に、お金の振込先が掲載されている。

 志賀先生は滞在期間中、柳樹房にある乃木希典軍司令官の隣家に住まいを置いている。この親しさもあってのことだろう、1904年12月5日に日本が二〇三高地を占領した後の乃木と児玉の詩会に呼ばれ、また、後日、乃木さんから「爾霊山」の詩稿を託されている。志賀さんはその紙片を大事に持ち帰ったらしい。


 この従軍記録は日記の形式になっており、本文は「明治37年8月21日(日)晴」の日から始まっている。第一回旅順総攻撃の真っ最中だ。この日、志賀先生は江の島で海水浴をしていた。すると号外のようなものが出た。「旅順口要塞陥落の報」に、満島の人民歓喜とある。

 この本における旅順口は、「坂の上の雲」で閉鎖作戦が行われている旅順湾の出入り口を「旅順口」と呼んでいるのとは異なり、旅順港なり旅順地域なり、もっと広い意味で使われている。それにしても、おかしい。8月21日までに、旅順の要塞は落ちていない。前進基地の高崎山を8月15日に占領しているだけだ。


 第一回総攻撃で占領したのは、先述のように盤竜山の要塞だが、日本軍が盤竜山を占拠したのは8月22日。日付が合わないだけではなく、そもそも旅順要塞が陥落したと言える規模でもない。情報源は「横浜の外字新聞社」だそうだが、大誤報だろう。

 8月23日、志賀さんは陸路にて広島に移動し、呉に入る。ちょうど蔚山沖海戦に沈んだリューリックの捕虜が連れて来られていた。24日、「軍用旅券」が届いて乗船。25日に出港。29日にダルニ―(後の大連)に到着した。第一回総攻撃は終わっている。


 9月4日に初の「戦線巡り」をした。その後も積極的に前線をまわり、各師団長や軍司令部の要員と会っている。師団の司令部においては、大砲の音が殷々と響き、先日も砲弾が落ちて戦死者が出たなどという話題が出る。志賀先生はおしゃれなパナマ帽などかぶり、ウロウロしているので危ないと注意されている。

 私は誤解していて、旅順の総攻撃は断続的に行われ、その合間は休んだり作戦を練ったりしていたのだとばかり勝手に思い込んでいたのだが、前線はずっと戦闘状態だったのだ。9月19日に第二回総攻撃が始まる。国内では「旅順市街地に突入」などという新聞報道がなされたらしい。そして、10月2日(日)晴、児玉源太郎が出てくる。現代の仮名使いにかえて引用します。


 前日以来、二十八サンチ砲の据付おわり、今日は敵要塞をめがけて初めて試射するとのことであるより、朝餉の後、攻城砲兵司令部の山頂に向かった。軍用軽気球は、晴れ渡りたる晩秋の空に揚がり、風なきままに雲居を鳴き行く雁の群れと、その高さを競わんとするところなど、一生涯中に、いまだかつて眺めたることもなき景趣であった。

 攻城砲兵の山上に登ると、山、海、渓谷、地隙、掩堡、要塞、幕舎、軍艦の一大パノラマは眼前に展開し来たれり、「海國檣帆壯。邊城鼓角雄」の古句を想い起こした。満洲軍総司令部より児玉大将も来たり臨まれ、乃木大将、鮫島中将、伊地知少将らと観測しておられ、ここの主任なる豊島中将が砲火を指し、例の快活なる大声をもって、しきりと説明しておられる。

 この日の成績は良好だったそうで、敵兵が何人か吹っ飛び、相手が狼狽している様子を望見できたということだ。なお、豊島中将は「坂の上の雲」にも何度か出てくる第三軍の砲兵指揮官。鮫島中将は、第十一師団の土屋師団長(負傷、後送)の後任。文中の古句は、北宋の王珪の詩。軍用軽気球とは、長岡次長が発案したものかな。

 本書に児玉大将が出てくるのは、このあとの第三回総攻撃(児玉の二回目の旅順行)を除くと、私が読んだ限りでは、この箇所だけだ。このすぐあと、沙河の会戦が勃発し、それに先立つロシア軍南下の報を受けて、児玉は大山に呼び戻され10月6日に遼陽に戻っている。従って、10月下旬に再開される第二回総攻撃の第二部は観ていない。

 
 児玉の第一回目の旅順出張は、「坂の上の雲」では督戦、督励と表現されている。漠然としていて、どうもわかり辛いと前回、書いたのは、総攻撃開始のタイミングでもないのに、という時期の理由の分かりにくさも働いている。児玉総参謀長は、おそらく二十八サンチ榴弾砲の働き具合を確かめに来たのだろう。少なくとも、それが目的の一つであると思う。

 この十月、遼陽でも旅順でも、日本軍は砲弾をほとんど撃ち尽くし、しかも旅順はなかなか戦果が上がらない。この巨砲の導入と旭川第七師団の追加派遣が水泡に帰せば、極寒の冬季を迎えつつある満洲で日本軍は凍り付いてしまうのではないか。総司令部に戻った児玉の頭脳は、しばらく動かなかったと書かれている。全軍の現状を見渡した結果が招いてのことだろうと思う。




(おわり)





前掲書より、乃木将軍の筆跡。
















 吹きまよふ雲居を渡る初雁のつばさにならすよもの秋風  

                   「新古今和歌集














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