正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

東を征せよ  (第156回)

 ウラジオストクという言葉の意味は、文庫本第四巻「旅順総攻撃」によると、「東を征せよ」という意味だそうだ。なんだか神武天皇みたいだな。その地を拠点とするロシア帝国の「太平洋艦隊」は、司馬さんの解釈では、「ロシアの中国・朝鮮侵略のための威圧用艦隊」であった。ところで現在も、ウラジオストクの名前のままであるのは何故だろう。

 ちなみに、ウラジオストクの真ん中の「オ」は、ロシア語では「ヴォ」と発音するらしい。私は露語はできないが、少なくとも英語の辞書では「V」音になっている。私が天文少年だったころ、ソ連の宇宙開発事業は「ボストーク」と呼ばれ、その第1号がガガーリンを載せて、地球が青かったことを確認している。あれも「東」の意味だそうだ。


 まだこのブログでは、黄海海戦の箇所についての感想文を書いていない。1904年8月10日だから、乃木第三軍が旅順を目指して、進撃している最中に起きた。この海戦は、亡きマカロフの後任ウィトゲフトが、皇帝の御意志であるという極東提督アレクセーエフの強制により、旅順港を出てウラジオストクに移れという命令を受けたことにより始まった。

 旅順口外では東郷艦隊が待っているのだから、移動だろうと逃亡だろうと、どのみち海戦になる。なった。旅順艦隊はウィトゲフトの戦死も含め損害を出し、旅順湾内に逃げ込んでしまった。戦略的には日本の負けだろう。真之もそう言っている。絶好の機会を逃したのだから。ロシアも失敗だ。旅順艦隊が日本海軍と刺し違えていれば、日本海海戦は本当に危なかったのだ。


 私はこれまで大国ロシアの反対岸で編成された第二太平洋艦隊、通称バルチック艦隊は、一路ウラジオストクを目指しての航海だったと単純に信じ込んでいた。「坂の上の雲」に限らず、どの本にもそう書いてある。だが、確かに途中からは、そうだったに違いないが、リバウ軍港を出航した時点でもそうだったろうか。今日は想像ばかりです。

 バルチック艦隊の出航は、1905年10月15日。旅順総攻撃の第二回が途中で停まってしまっている段階だ。まだ旅順は落ちていない。ロジェストウェンスキーが、旅順艦隊の全滅および旅順要塞の陥落を知ったのは、西インド洋のマダガスカル島ノシベにいたとき。文庫本第五巻の「水師営」に出てくる。

 このとき、艦隊内では「本国に帰るべきだ」という声も出たとある。太平洋艦隊は、この旅順に最新型の戦艦を揃えていたからこその共同作戦と大航海だったのだ。ほかにも拠点があった仁川とウラジオの艦隊はすでに無い。しかし結局、本国が追加でネボガトフ艦隊を送ると言ってきたので船旅の続行が決まった。


 ということは、旅順が落ちるまでは、ウラジオストクに入るというのが、バルチック艦隊の唯一の選択肢ではなかったはずだ。実際、「旅順総攻撃」の章には、旅順陥落前にバルチック艦隊が来た場合の想定演習が行なれており、日本の負けと出た。

 翌年5月に、バルチック艦隊がどのルートをとり、連合艦隊はどこで待機すべきかについて秋山真之は頭が変になりそうなくらい悩むことになるが、これも旅順が陥落したからで、当初見込みどおり1904年の秋ごろに来られたら、悩んでる場合ではなくなっていたはずだ。旅順の手前で撃滅しないと、旅順港に逃げ込まれるおそれがある。あそこは鬼門だ。


 したがって、海軍の要請は、旅順艦隊の撃滅だけではなく、旅順要塞の降伏もあったのではないか。旅順艦隊が壊滅したことを確認したのは、かつて話題にしたが1904年12月19日で、第三回総攻撃中に、東郷司令長官自ら、最後の行方不明者だった戦艦セヴァストーポリの沈没を確認した時点になる。

 そのあとも、陸軍は攻撃を続けている。これから第三軍が北上するためには、後顧の憂いを取り払わないといけないが、先述のとおり、海軍のためにもこの要塞の戦意と戦力を削ぎ落とさないといけない。

 バルチック艦隊出航の知らせは、早くも翌10月16日に日本に届いた。おそらくイギリスの手回しだろう。これは二十八サンチ榴弾砲を除く砲弾が尽きて、身動きが取れなくなっていた乃木軍も、大本営のせいにばかりしていられなくなった。第二回総攻撃が再開されたのは、すぐあとの10月25日。坑道を掘り進めながらの進撃となった。




(おわり)




正岡子規お気に入りの秋海棠
(2017年11月13日撮影)









































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