正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

白襷隊  (第159回)

 旅順の話題に戻る。ロシアの旅順要塞が落ちたのは正月だった。今から113年前。ずいぶん昔のことのように感じる。一方で、今年は政府が騒いでいるように、大政奉還150周年の年にあたり、また、先述のように「坂の上の雲」の企画は、明治百周年を記念してのものだった。

 連載時は、まだ日露戦争から60年余しか経っていない。それだからこそ、「坂の上の雲」には貴重な戦争体験者が生き証人として出てくるのだが、ということは同時に、夫や父を戦争で亡くした人たちが、まだ大勢ご存命だったということだ。


 新聞連載小説だから、誰の目に留まるか分からない状況下で書かれている。旅順の戦死者の遺族はどう思うか、私としては司馬遼太郎がそういうことを何も考えずに書いていたとは到底思えない。

 中には、こんな酷い戦闘だったのかと怒りや悲しみを募らせた人もいるのではないかと思う。他方、乃木さん死して神様となって以降、不満を述べたり軍を攻撃したりということができなくなった遺族も、少なからずいたような気がする。

 荒っぽく言うと、ここはひとつ、乃木・伊地知に悪役の一つでもやってもらわないと感情の整理がつかないと、小説家が考えてもおかしくない。そして、何度でも繰り返すが、連載当時の読者は、日露戦争以上に先の大戦という、政府による戦争という惨禍の犠牲者が多くを占めている。作者も自身の体験から来る怒りを鎮め切れていない。


 百年以上前というと、私も含め今を生きる日本人の誰もが、自分と血のつながった人が戦死しており、且つ、そのことを知らないでいるという可能性がある。でも古い戸籍か家系図でも残っていない限り、いまとなっては調べようもない。

 全国各地から兵を集める海軍と異なり、陸軍には編成地という名の土着性がある。私の生まれ故郷の静岡は、当時、歩兵第34連隊があった。日露戦争時は第三師団の隷下にあり、奥第二軍で働いている。

 遼陽の会戦で激戦地となった首山堡の正面ど真ん中を担当し、関谷連隊長も橘第一大隊長も戦死した。橘周太さんが軍神になった。なぜなのか、いまだに訳が分からない。もちろん本人の軍功を貶めようとしているのではなく、他の人とどう違ったのか、広瀬のようなエピソードがあったのか、そういう点が不明です。


 土着性という言葉を使ったのは、今一つ思うところがあって、櫻井忠温著「肉弾」を読んでいたとき、司令部付の少尉だった著者でさえ知らない理由により、彼の善通寺第十一師団は、それまで奥第二軍に属し南山・金州で戦ったばかりなのに、いきなり現地で乃木第三軍に編成替えになった。

 こういう組織編制や人事の裏事情や本音のようなものが公式の記録に残るはずもないが、もしかしたら極めてシンプルな理由によるもので、乃木さんがかつてこの第11師団の師団長だったからかもしれない。


 それも日露戦争の3年前まで務めていた。3年というと若い兵は入れ替わるかもしれないが、士官や下士官は昔馴染みがいたかもしれない。すぐ前の師団長だったとなれば、部下の信頼愛着も得やすいのではないか。どうなのだろう。

 第三軍は、東京の第一師団も含む。乃木さんの自宅は当時、東京だから、地元といえなくもない。ただし、第一師団は南山の戦いの増援と、二〇三高地の攻撃に加わったため、同じ住所で(推測です)、同じ師団にいた長男と次男を失うことになる。乃木夫妻の悲劇は古く、心の闇は底知れず深いような気がする。


 先ほど「ここはひとつ、悪役に」なんて粗雑なことを書いたが、白襷隊については、さすがに司馬さんも並み大抵の評価ではなく、この着想ほど「乃木軍司令部の作戦能力の愚劣さを表したものはない」と酷評している。文庫本第四巻「旅順総攻撃」の最後のほうに出てくる。

 しかも、そのすぐ前のページには、「乃木と伊地知がやった第三回総攻撃ほど、戦史上、愚劣な作戦計画はない」と書いており、当人たちが聞いたら憤死しかねない表現だ。この作戦計画は、児玉源太郎により大きく軌道修正されたというのが「坂の上の雲」の考え方であり、児玉は作者に替わって伊地知を面罵することになる。


 しかしながら、白襷隊は作戦変更の前に始まり、終わった。旅順と二〇三高地が登場する史書や映画や小説には必ず出てくる象徴的存在なのだが、それにしても相打ちを避けるためだったというあの目立つ白襷は、より近くにいるロシア軍には、もっと見付かり易いだろうという発想はなかったのだろうか(もっとも、目立つも何も、夜襲早々に壊滅している)。

 しかも三千人余りしかいない。さらに向かったのは「坂の上の雲」で「本街道」と書かれているところ、すなわち、このブログで旅順街道と呼んでいる道で、北の水師営から、南の旅順市街まで真っすぐ南下する幹線道路。すぐ東にある松樹山の砲台を奪うというのが第一の戦術目標で、そのあと一気に旅順要塞に突入するという大戦略


 絵に描いたような逐次投入と各個撃破の犠牲になった。平塚さんの本に生還者の証言があるが、水師営まで退却して振り向くと、「飯の上に蝿が止まったように」、大地が日本兵の戦死体で覆われており、ロシア軍に頼み込んで、「その死骸を収容した次第であります」という惨事になった。

 隊長は第一師団第二大隊長の中村覚少将。「兵だけを死なせるわけにはいかない」、「明治維新でもっとも冷遇された彦根藩の出身」という書き方に、司馬さんの怒りがこもっている。先の静岡連隊もそうだが、徳川家ゆかりの地や薩長と戦った北国の陸軍部隊は、日露戦争だけでなく先の大戦においても、こぞって激戦地に送られている。


 中村少将は日清戦争のときに侍従武官を務め、帝から愛されたという逸話も紹介されている。この点、大迫尚敏と似ているが、それにしても何故、乃木といい大迫といい中村といい、宸襟を乱し奉るような戦場に送られたのだろうか。やはり、旅順はすぐ落とせると上の方は考えていたのだろうか。
 
 日付を整理する。予備の第七師団が大連に到着したのが1904年の11月20日。そのあと参謀会議があり、第三回総攻撃の軍命令が11月23日。白襷隊の選抜が行われたのが11月24日。総攻撃の開始と白襷隊の敗退が11月26日。いつもながらの26日。

 乃木将軍が正面攻撃を断念し、二〇三高地に攻撃の矛先を変えたのは27日の午後3時だったと、文庫本第五巻「二〇三高地」にある。平塚柾緒「旅順攻囲戦」によると、第一師団が二〇三高地とそのすぐ北にある老虎溝山に砲撃、続いて突撃を開始したのが11月28日。しかし、今なお敵は手ごわかった。


 この結果、第一師団は実質的に戦闘力を失い、大迫中将の第七師団が吸収するような形で率いることになった。ロシア側の資料には、11月29日から、日本軍の砲撃が激化し、しかも二〇三高地に集中し出したと書いてあるそうだ。

 この時期の満洲総司令部は、遼陽の北の煙台に進んでいる。「旅順総攻撃」の章の終幕は、第三回総攻撃開始日の11月26日に、児玉総参謀長が未明に起床した場面だ。心配で寝ていられなかったのだと書いてある。児玉は用を足した厠のそばで、小さな掌を合わせて陽を拝んだ。間もなく彼の寿命を縮めたに違いない出張が始まる。



(おわり)



 

明治十八年の上野駅の絵。子規や真之の青春時代。
日露戦争はまだ先のことで児玉が乗ったのはロシア製の汽車。
とはいえ何処で読んだが忘れたが、その客車は木造だったというから、
おおむね外見はこんな感じだろう。
この写真はまた別途、話題にする予定です。













車が少ないせいか、正月は東京も朝焼け夕焼けが綺麗です。
(2018年1月2日夕方撮影)





















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