正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

志賀先生  (第161回)

 以前も引用した覚えがあるが、司馬遼太郎は「坂の上の雲」のテーマについて、文庫本第六巻「黒溝台」の章で次のように書いている。

 この稿は戦闘描写をするのが目的ではなく、新興国家時代の日本人のある種の能力もしくはある種の精神の状態について、そぞろながらも考えてゆくのが、いわば主題といえば主題といえる。

 「この稿」は黒溝台の稿を指してのことかもしれないが、全編にわたる主題と考えて差し支えないと思う。そして本ブログも、「戦闘描写」をするのが目的ではなく、ひとえに娯楽目的だ。この小説や関連する本や映画などに出てくる登場人物の言動を楽しみながら感想を書いている。


 それでも作者は、戦闘描写を或る程度は避けて通れなかったのが黒溝台であり、また、旅順や奉天日本海海戦であり、若い人たちが戦い、死んでいく場面を黙って通り過ぎていくことができなかったようだ。義理立てするまでもなく、私も目をつぶって通り抜ける訳にいかない。

 上記引用の「ある種の精神の状態」というのは、「二〇三高地」の章でいうと、「国家というものが、庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前にない。が、明治の時代の庶民にとって、このことがさほど苦痛ではなく、ときには甘美でさえあった」という集団的感動の時代だったというふうに描かれる。



 国家の重圧は、本文にも「あとがき」にも時々出てくるように、戦争であり重税であり重労働だった。しかし、それが甘美になり得るというのは、どういうことなのだろう。

 明治より前の時代では、私の印象だと庶民は税金(年貢とか租庸調とか)を納めれば、あとは良かれ悪しかれ、ほったらかし。このほうが私には合うのだが、そのかわり、生老病死の苦しみには自ら耐えないといけない。

 生老病死なら全ての人に襲い掛かって来るから、まだしも不公平感は少ないが、戦争はどうだろう。征くと征かないとでは大違い。それでも、二十歳やそこらの若者が、「お国のため」と言って死んでいった。この国とは、国家権力のことだろうか。


 以下は前回からの続きで、同じ人たちにご登場願う。地理の先生にして日露戦争の従軍記者だった志賀重昂の日誌「旅順攻囲軍」には、彼が到着早々、野戦病院を訪う場面がある。さすがの行動だ。戦傷者が入院している。

 彼らは、国を出るとき皆に励まされ見送られてきたのに、戦友が次々死んでいく戦場で寝ている訳にはいかない」と退院したがっては軍医の先生を困らせていたらしい。彼らにとっての「お国のため」とは、自分と関わりのある人たちのため、というのと同義であると思う。これが士官、将校と出世するにつれ、感受性が麻痺する人たちが出てくる。


 この点、印象が鮮やかなのは、日本海海戦の初日が終わりつつある夕刻、東郷平八郎が戦艦「三笠」の戦傷者収容の場を訪う場面だ。私の想像だが、治療場所は通行その他の障碍にならないよう、舟底に近い船室が使われるのではないかと思う。私が艦長なら、そうします。

 今なお当時の姿で保存されている「三笠」を歩いた方ならご存じのように、東郷さんの持ち場になった艦橋から司令長官室までは、船底を通過せずにたどり着けるはずだ。彼は戦いのあと、例のごとく黙ったままで怪我人のお見舞いにいったに違いない。


 志賀重昂「旅順攻囲軍」の1904年12月11日の稿は、タイトルが「爾霊山」となっており、当日は日曜日で天気晴れと書いてある。その冒頭が「謹啓」になっているのは、手紙か何かを転載したものだろうか。そのあとが本文(適宜、現代仮名遣いに改めます)。

 二〇三高地の戦争は11月27日より12月6日に至る全九昼夜にわたり、敵味方、五回取りて、五回取り返され、遂に六回目に確実に占領せしものにこれあり候。二〇三高地占領と題して、大いに歓呼されおるは、三回目の占領なり。

 
 この9日間で敵味方の死傷は約二万人に上った由。以上は同じ内容で他の箇所にも再び出てくるので間違いあるまい。第三軍司令部が最初に「占領」という電信を送って児玉源太郎を怒らせたのが、おそらくこの「三回目の占領なり」だろう。

 なお、この文章の少しあとに、なかなか興味深い記録が出てくる。「参謀山岡少佐」が、高崎山の中腹にある藁小屋を開けたところ、中に四人いたという話を志賀さんにしている。日付は明確ではないが、この九日の間の話だと書いてある。


 おりから、満洲軍総司令部より来会せられたる参謀総長児玉大将、同次長福島少将と、第三軍司令官乃木大将、同参謀長伊地知少将との四将軍が、鳩首して審議中なりしを以て、山岡少佐には立ち去らんとするや、児玉大将には呼び止め、「おい、元老会議と言っちゃあ、こんなもんだぜ」と申される(後略)

 児玉の性格や物言いは、「坂の上の雲」そのままだったらしい。一方、児玉と伊地知は当たり前かもしれないが、ケンカばかりしている場合ではなく、鳩首審議もしており、児玉閣下も独断専行ばかりではなかったのだろう。

 では志賀さんいわく、「全軍の血をそそいで奮戦せし」二〇三高地はどういう展開でどういう惨状を呈したのか、その一端を次回、次々回に書きます。




(おわり)


近所の諏方神社にて今年の初詣  (2018年1月2日撮影)







































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