正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

伝令の死  (第163回)

 前回引用したスタンレー・ウォシュバン「乃木大将と日本人」には、なかなか他の資料ではお目に係れそうもない、乃木将軍の日々の言動や表情などが記録されている。部下である日本の軍人が、そういう軍司令官の姿を書き残すのは難しいだろう。

 ウォシュバンによると、乃木大将は外国の従軍記者に対し、常に穏やかに接していたが、突撃の命令を下すときなどは顔色も変えず厳しい表情であったらしい。まだ先の話だが、奉天の方面に移動して戦局が好転してからは、また温厚な乃木さんに戻ったそうだ。なお、そのころ乃木司令官は眼病も患っていたと書いている。


 乃木さんは、けっこう表情豊かなお人であったように感じる。学生時代に観た映画「二百三高地」では、仲代達也が演じていて、あのイメージが今も強い。もっとも、仲代乃木は笑顔で始まり、嗚咽で終わる悲惨な戦いを体験することになる。

 あの映画は、先の大戦を知っており、黒澤明を知っている役者が出た最後の時代の作品だ。「椿三十郎」では仲代を引き立て役にした三船敏郎が、こちらでは立場を逆にした。明治天皇を引き立て役と呼んでも宜しければ...。森繁久彌伊藤博文は、昔の千円札そのものであった。


 従軍記者の志賀重昂は、11月30日に彼のいう「二子山」こと二〇三高地への攻撃があると聞き、例の砲兵陣地に登った。この場所が正確にどこにあるのか今の私には分からないのだが、攻城砲兵司令官の豊島少将が司令部を設けている。旅順街道沿いで、水師営の北のほうらしい。ここから二〇三高地が見える。

 志賀先生は現地の軍人に危ないから気を付けてと注意されつつ、観れば日露両国が、二つの頂を奪い合っての戦闘が続いている。日本軍が二つの頂上に達したときも、ロシア軍は中間点の鞍部から退かず射撃を続けているのが見えた。


 この日、二〇三高地を攻めたのが前回挙げた「香月隊」と「村上隊」。ロシア側は総指揮者が少将コンドラチェンコ、前線の司令官が大佐トレチャコフ。この日から翌日にかけての戦闘で、トレチャコフのサーベルに小銃弾二発が当たり、刀身が抜けなくなったとある。

 コンドラチェンコは周辺の要塞から友軍を引き抜き、二〇三高地に送ってトレチャコフを支援した。対する日本側は既に全軍にわたり消耗と疲労がつのり、増援を送ることもできぬまま、やむなく一旦、退くことになる。これを児玉は占領とは呼ばず、馬鹿ァといった。



 11月30日は、まず香月隊が二〇三高地の南西角にある露軍堡塁を攻め、「白兵戦をもって、ロシア兵をたたき出した」。司馬遼太郎によれば、「日本には古来、槍術の伝統がある」ため、「飛び道具とは卑怯なり」であるが、直接対決には強いのだ。

 しかし、すでに香月隊には友安旅団長の司令部から、「その西南角から鞍部をとおって頂上へすすめ」という厳しい命令が下っている。頂上へ、ということは鞍部の反対側にある北東角のほうが高いらしい。そちらが標高203メートルか。


 この北東角は、連携行動中の「村上隊」が受け持ちだったが、敵の銃撃があまりに激しく身動きが取れなくなっていた。これでは香月隊も動けない。友安旅団長は「陣地を出て前進せよ」と村上隊に命令を下すことになる。

 このとき、旅団司令部に老鉄山の敵砲台が放った巨弾が命中した。司令部ではほとんどの者が死傷し、無傷で残ったのが、どういう運命のいたずらか、友安旅団長と、副官の乃木保典少尉だけだった。伝令役が自動的に決まった。


 乃木少尉は砲弾の雨の中を走り、村上隊にたどり着いた。村上隊長は気の重い命令を二つ受けた。前進せよ。そして、旅団司令部が人手不足になったので、彼の連隊から旅団司令部に要員を割けというものだった。

 午後4時ごろだったらしいと「坂の上の雲」には書いてある。「ただちに前進します」という返事を携えて帰る途中、乃木少尉は海鼠山で銃撃を受けて戦死した。海鼠山は、二〇三高地高崎山の間にある。誰も戦死の瞬間をみていない。父親の指揮命令下での出来事だった。


 旭川の村上隊は前進した。香月隊も進んだ。「全滅を顧慮することなく」という旅団命令について、司馬遼太郎は「古来、東西を問わず、これほどすさまじい軍命令はなかったであろう」と書いている。

 三十日午後十時、両隊は二〇三高地を奪った。それぞれ連隊なのだが、香月隊は約百名、村上隊は約四十名しか残らなかった。ロシア側は海軍兵まで山に登らせ、いったん引いてから逆襲してきたが、ついにこの夜は引き下がらざるを得なかった。

 日本側は、「撃つに弾なく、飲むに水なく」という悲惨な勝利者として山頂をまもっていたが、援軍も来たらず、夜が明けようとしている。明るくなれば、この人数と状況が敵に分かる。村上隊はやむなく下山した。香月隊の占領地も翌12月1日の未明には、敵に奪い返された。ちょうどその頃、児玉源太郎の汽車が金州駅に着いている。


 志賀重昂「旅順攻囲戦」によれば、乃木保典少尉の戦死の報は、第三軍司令部に電話で届いたそうだ。白井参謀が荷の重い役割を背負ってしまい、乃木希典司令官に、「何か埋葬につき御希望はおありか」という前線の質問を伝えることになった。

 今なお戦闘中である。軍司令官は、「攻路頭に斃れたるからには攻路頭に埋めよ。兄の勝典も斃れたるところに埋めたり。」と応え、さらに「二人共に逝くてこそ満足なるべけれ」と、一滴の涙も流さずに答えた由。

 ウォシュバンは奉天で乃木将軍が明るさを取り戻したと伝えつつ、独りだけになると悲痛な顔付きで、何かに堪えている様子だったという趣旨のことを前掲書に記している。これについてウォシュバンは、父親に戻った乃木が「両典」を悼んでのことに違いないと確信を以て書いている。




(おわり)



飛び道具の彫刻。1909年ブールデル作「ヘラクレス」。
(2018年1月6日、上野国立西洋美術館にて撮影)



































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