正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

弥助砲  (第165回)

 大山巌児玉源太郎が、児玉の二回目の旅順行きについて相談する場面は、先に執筆された「殉死」と、「坂の上の雲二〇三高地の章とでは趣が異なる。「殉死」では、乃木を罷免してはどうかという大本営からの勧告を、大山は拒否した。だが、さてどうしようというときに、児玉が「わたしがやりましょう」と言っている。

 いま参謀総長に留守されてはたまらんと大山は困惑するが、国家のためだということで児玉に任せることにした。そういう展開なので、児玉の役回りのほうが外連味があって面白い。


 しかし、「坂の上の雲」は違う。児玉が部屋に入りゆくと、大山は「クロパト」相手の戦況を尋ね、ここ十日以内は大丈夫でしょうと児玉が答える。「それで、旅順へゆこうとなさるのですな」と大山が言ったから児玉も驚いた。二人、同じことを考えていたという設定になっている。

 何の根拠もない推測ながら、この両作品の間に「坂の上の雲」のための調べ事をしているうちに、司馬遼太郎大山巌を見る目が変わったのかもしれない。その傍証のようなエピソードが、この応答の前に散りばめられている。


 例えば、「どこかで、ゆっさがごわすか」もそうであり、大山が陸相だった時代に、児玉や川上操六や桂太郎の終わらぬ議論を手際よく取りまとめたというような話もそうである。中国人まで担ぎ出している。清国の袁世凱が使者として送ってきた段芝貴という人物が二回、出てくる。軍事の秘書官のような地位だったらしい。

 一回目は遼陽の会戦が終わったころで、見舞品に毛皮だシャンペンだと豪勢な品物を贈ってもらった大山総司令官は、「段サン、人間は何も知らないに限ります」、「何も知らないから、どんなところにでも向きます。まことに重宝な人間でございます」と語った。すでに大山は文武の高官を幾つも務めているから、説得力がある。


 さらに、この時期、沙河の会戦後にも段サンは陣中見舞いに来たが、今度は「総司令官はわりあい、ひまなものでございますから、田舎を散歩いたします」と近況を報告し、シナの白菜の研究をしておりますとも答えた。

 どうやら本当にやっていたような気配を感じるが、それにしても食えないおじさんだなあと思うのは、こういう人物というのは、如何にも古代中国思想に出て来そうな大物であり、きっと相手を観て話しているのだろう。最低限のやるべきことはやって、あとは天と部下に任す。


 どこで読んだか忘れたが、日露戦争後、大山巌の奥様は来客に対して、「大山は児玉さんが好きで好きで」と話していたらしい。だが、本件はただ単に仲が良いというようなことで処理できる相談ではない。大山は、児玉も乃木も良く知っている。

 一例を挙げれば、十年前の日清戦争の開戦時、陸軍大臣大山巌、陸軍次官が児玉源太郎だった。軍司令官が二人任命され、第一が山縣、第二が大山で、この第二軍には乃木旅団長がいる。ついでにいうと、伊地知も森鴎外もいる。そして彼らは旅順に行っている。

 また、大山は若い頃、自分で大砲を設計したという砲術の老舗なのだ。その当時からの長い付き合いの黒木為腊は、上司で最高司令官の大山巌を、相変わらず「弥助どん」などと呼び続けたりするから、元帥になれなかったのだ。たぶん。


 ちなみに、日清戦争は、大日本帝国憲法帝国議会ができた1889年から、わずか五年後に始まった。このため、明治憲法に署名した閣僚と、日清戦争開始時の重要人物は、伊藤博文を始め、西郷従道大山巌など、かなり重なっている。近代日本の土台工事をしてきた人たちだ。

 それがもう還暦を超えた日露戦争でも、まだ重責を担って、ご老体にはさぞかし厳しいであろう真冬の満洲で戦っている。大山は児玉に全権を委任する旨、一筆したためて渡した。児玉は遺書を書いた。さらに二人は、乃木軍に対する厳しい叱責の電報を発する。1904年11月29日の夜八時、児玉は煙台停車場から汽車に乗った。



(おわり)



上野寛永寺の鐘  (2018年1月6日撮影)




花の雲鐘は上野か浅草か  芭蕉























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