正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

葡萄酒と洋食  (第166回)

 葡萄酒に洋食。いずれも殆ど死語になりにけり。これらを美味しく頂けるはずだった旅順鉄道の汽車の中、児玉源太郎と共に第三軍の戦場へと向かう参謀田中国重少佐は、11月30日に行われているはずの二〇三高地攻撃の結果を気にしながらの旅となった。もっと気にしているはずの児玉は子供のように寝ている。

 英雄譚が後世に残るためには語り部が必要だと「黒溝台」の章で司馬遼太郎は書いている。義経義経記や、大楠公太平記や、秀吉の太閤記のように。立見尚文には、それがなく、作者は東北まで取材に出かけて、自らが語り部になった。


 「坂の上の雲」にも、幾人かの語り部が登場し、主要人物の存在感を引き立てるような役割を担っている。陸軍でいえば、乃木さんの場合、すでに出てきたスタンレー・ウォシュバン、イアン・ハミルトン、志賀重昂、一戸兵衛と多士済々だが、後に登場する津野田是重が道化師のようで面白い。

 秋山好古には、永沼秀文がいる。いつの日か、この二人を話題にするのが楽しみなのだ、私は。そして、児玉源太郎の旅順行は、内容が深刻で激烈なだけに、お付きの田中ァとの掛け合い漫才のようなやり取りが、この小説の見せ場の一つである二〇三高地の攻撃を、一面で珍道中のように描いくことにより物語のアクセントにしている。津野田も田中も、太郎冠者みたいなものだな。


 日付が変わって12月1日の午前二時半ごろ、田中はふと、まどろみから目を覚ました。田中は深夜に児玉に起こされ、煙草に火を貸しそこねて詫びたところ、軍人がくだらんことで謝るなと、逆に説諭された。児玉は、「おぬしも寝ろ」と勝手に先に眠ってしまったのだ。

 田中が目を覚ましたのは気配があったからで、汽車が駅に停まっており、外で人の声がする。起き上がろうとすると、ベッドのカーテンの向うから、同行の曹長の上ずった声が聞こえてきた。「田中少佐殿、二〇三高地が陥ちました」。


 田中が「ここは、どこだ」と訊くと、「金州駅であります」とのことだった。乃木司令官の長男の戦没地である。劇的であるが、平塚柾緒「旅順攻囲戦」によると、田中の証言はもう少し事務的な展開で、金州駅に届いていた電報の暗号を田中が訳して、児玉に伝えている。「第三軍は二〇三高地を確実に占領せり」。

 このあと平塚説では葡萄酒、司馬説ではシャンペンを開けた。以下は「坂の上の雲」を追う。グラスは二つだけしか出てこなかったが、児玉は皆に飲ませろと、随行者にも振舞った。曹長は、炊事の係にカツレツを作るよう頼んだ。まだ夜明け前だが、それどころではないのだ。


 若い人におかれては、カツレツとは何じゃ、だろう。正確には料理方法なのだが、私の田舎の場合は、豚肉のカツレツのことを、トンカツと呼んでいたが、カツレツは日常用語ではなかった。「この時代、最高のご馳走だった」と司馬さんが念を入れている。

 ちなみに、なぜ今ごろ漫画化されて売れているのか分からないのだが、吉野源三郎君たちはどう生きるか」(岩波文庫)に、大正時代の肉屋の店先が出てきて、カツレツ十銭、コロッケ七銭である。


 この先は、平塚説に戻ると、児玉は乃木に祝電を打ち、大連駅の鉄道提理部の二階で一息つこうとしたところ、二〇三高地が奪い返されてしまったという情報が待っていた。児玉は卓を叩いて怒り、準備してあった洋食を見て、「オイ田中、朝からこんな洋食を食う馬鹿がどこにあるか、食いたければ貴様が食え。俺には茶漬けを持ってこいと言え」と叱りつけ、一説には皿をひっくり返して出て行った。星一徹のようだ。

 司馬説では、汽車から出ていない。洋食はさすがに元ロシア製の客車を分捕って使っているから、さすがに急きょカツレツは無理で、児玉も寛大に「そりゃ、そうだろう」とご機嫌が良い。顔が輝いている、という表現は、「坂の上の雲」では、ここでの児玉と、バルチック艦隊対馬海峡に現れたときの東郷さんに使われている。


 児玉は興が乗って、「四角い文字をならべてある」という水準の下手な漢詩を創り始めた。しかし、そのあとが宜しくない。話し相手をつとめていた田中が電話に呼び出され、戻ってきたときには顔色が変わっている。旅順の大庭参謀からの連絡だった。内容は同じ。二〇三高地は、再びロシアのものとなった。

 ここでも田中は、「洋食なんぞ食っているときか」と怒鳴られ(カツレツ以外の洋食だろうか)、児玉はフォークとナイフを投げだすというマナー違反、しかし最初にとった行動はさすが参謀長で、大山に歩兵一コ連隊を南下させるよう電報で要請した。


 この日は1904年12月1日。児玉にとっても田中にとっても、旅順第三軍の首脳陣にとっても長い長い一日になる。次の犠牲者は長嶺子の駅まで、出迎えと報告に来ていた大庭二郎参謀だった。彼は伊地知参謀長に次ぐナンバー2の次長なのだが、「馬鹿ァ」とやった。

 そのあと「占領とは何か」という説教が延々と続き、さらには車窓に戦没者のお墓が並んでいるのまで見つかってしまい、新兵の士気が下がるだろうが、と追加の雷が落ちた。昼ごろ汽車は柳樹房に着いた。この日に乃木との面談、作戦会議をやることになる。遅くなればなるほど兵が死ぬと児玉は考えている。



(つづく)




スズメがなる木  (2018年1月7日撮影)



































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