正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

「旅順入城式」  (第172回)

 掲題の「旅順入城式」は、内田百輭の短編小説であり、また、本作を含む短編集(岩波書店)の名でもある。1934年に出版された。東郷平八郎元帥が亡くなった年だ。ときどき仕事で市ヶ谷や麹町に行くのだが、先日、昼休みに東郷元帥記念公園まで散歩しました。東郷神社とは全くの別物です。
 
 公園名の由来は、敷地の一部が東郷さんの私邸址だから。工事中だったが、半分は解放されていて、子供たちが遊んでおった。新緑が豊かだった。写真が暗いのは曇天だったため。蘘國神社千鳥ヶ淵のすぐそば。


 この1930年代の前半というのは、29年の世界大恐慌の影響が大きいと思うが、世界も日本も、政治・経済・軍事が荒れた。満州事変、五・一五事件国際連盟からの脱退(入れ替わりでソ連が加盟)、ワシントン・ロンドン軍縮条約の破棄。ドイツでは33年にヒトラーが首相に、翌年には総統になっている。関東軍が「731部隊」の活動を始めたのも同時期。

 この関東軍の中心拠点は、当初、旅順にあった。満州事変のあとで、満州国に移転している。関東軍第一次世界大戦のあとで、南満州鉄道(満鉄)の警備などの目的で設置された。この満鉄を造ろうと言い出したのは児玉源太郎

 他人様の土地を荒らした以上は、綺麗にして返そうという趣旨のことを言った人を、二人知っている。一人が児玉で、満鉄は日露戦争で勝手に戦場にされてしまった満洲の復興のために、児玉が考え出したものだ。もう一人は、東京電力福島第一原子力発電所の今は亡き吉田所長なのだが、こちらはまだ目途が立っていない。


 先回、乃木さんがステッセルの愛馬をすぐには受け取らなかったと書いた根拠は薄弱で、「水師営の会見」の歌詞に出てくる。「庭に一本 棗の木」が、「坂の上の雲」にも引用されている。作詞者の佐佐木信綱さんのお墓が拙宅近くにあります。当該箇所には、こういう会話があったことになっている。

 両将昼食共にして なおも尽きせぬ物語 
 我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし
 厚意謝するに余りあり 軍の掟に従いて 
 他日我が手に受領せば 長く労り養わん


 内田百輭の「旅順入城式」は、主人公が活動写真を観に行くところから始まる。なぜか陸軍提供のフィルムで、最近、当時ドイツ人が撮影した動画が見つかったので上映式があったのだ。前半が二龍山の砲撃シーンで、後半が旅順の入城式。

 字幕に「悪戦二百有余日」と出たあとで、それが消え、魂の抜けたような顔の兵隊たちが行進していく。「あちらこちらの山の陰で死んだ人が、今急に起き上がって来て、こうして列んで通るのではないかと思われた」。会場は拍手に包まれたが、主人公はいつのまにか、旅順の行進の中にいて、泣きながら歩いている。


 全体に果てしなく陰鬱な作品。旅順のフィルムを「世界の宝」と演壇から紹介する将校が、カーキ色の軍服を着ているという描写がある。帝国陸軍がカーキ色の軍服を採用したのも、ちょうどこの頃だから、百輭先生が時勢をどう見ていたかがよく分かる。陸軍がどの土地で戦争をしようとしているのかも、よく分かる。1939年にノモンハン事件が起き、私の伯父も万里の長城ちかくに出征した。

 司馬遼太郎が「殉死」と「坂の上の雲」で旅順を詳しく書いているのは、乃木・伊地知が無能だと罵倒するのが目的ではない。上記の経緯をみれば、分かりそうなものなのに。相手の国家がロシアからソ連に代わっただけで、対立は続いているのだ。五・一五事件直後から玉音放送まで、日本は軍事政権になった。ソ連はロシアになり、一昨日、シリアにミサイルが発射された。集団的自衛権が行使されませんように。




(おわり)




なつめの木 旧乃木邸の前にて (2018年3月4日撮影)
 






















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