正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

English Gentleman  (第173回)

 手元にイアン・ハミルトン著「思ひ出の日露戦争」(雄山閣)という本がある。これを読んでみたいなと思ったきっかけは、「坂の上の雲」文庫本第八巻にある最後の章、「雨の坂」に出てくる敗将ロジェストウェンスキーの描写に関連して、いわば唐突に出てくる次の箇所が気に入ったからだ。今回は引用が多く、現代仮名遣いに改めたうえ、青字で表記します。

 戦争が遂行されるために消費されるぼう大な人力と生命、さらにそれがために投下される巨大な資本のわりには、結果が勝敗いずれであるにせよ、一種の空しさがつきまとう。

 「戦争というものは済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに耐えなければならない」
という意味のことを、日本の将軍の中でもっとも勇猛なひとりとされる第一軍司令官黒木為腊が、従軍武官の英国人ハミルトンに言ったというが,,,(後略)


 黒木は、本当に戦争が済んでから、つまらなそうな顔で過ごしていたので元帥になれなかったにちがいないという仮説を立てて、私はひとり楽しんでいる。イアン・ハミルトン中将は、全ての従軍武官の中で最高位であり、日英同盟の間柄もあって、さっそく第一陣の黒木軍に従軍した。もっとも今回は、黒木の箇所は後のお楽しみに取っておく。

 ハミルトンは、さすが戦闘ばかりに見とれておらず、日本人や現地の中国人、将兵も民間人も、子供も家畜も観察して飽きない。本書の冒頭は後で付け加えた文章で、途中から日付入りの従軍日誌になっている。ときどき、待遇が悪いなどと文句を言ってはいるが、全般に日本には好意的で、というよりも、なぜロシア相手に善戦しているのかという観点を忘れない。例えば。

 日本の教育制度は遥かに英国を凌駕している。殊に教育が一般に普及している点は予想外である。これは制度が優れている計りでなく、国民全体が燃ゆるような智識欲を持っているせいである。今、私が使っている日本人の従僕は、機会さえあれば私から英語を学ぼうとしている。時には煩くて閉口する事があるが、私は密かに彼の熱心と、向上心に敬意を払っている。


 お疲れさまです。次に、日付が1904年12月21日の記録に、児玉源太郎大将が出てくる。このころ黒木第一軍も本軍に合流していて、ハミルトンは煙台にいた。児玉に午餐の招待を受け、煙台総司令部に出かけた。衛兵もおらず、歩哨すら立っていない。ハミルトンから見て、児玉は大宴会のホスト役は苦手なようで、他方、一対一だと話し甲斐のある相手だった。

 二〇三高地は、すでに12月5日に日本軍が占領しており、同15日にはコンドラチェンコ中将が戦死している。18日には東鶏冠山も落ちた。旅順攻囲戦は、最終段階を迎えているかに見える。児玉はハミルトンに手紙の束を見せ、本土の子供たちからたくさん手紙がくるので、なるべく返事を出すようにしていると言った。一見のどかなものです。その食事中のことだ。


 午後一時十分に旅順から電報が届いた。将軍はその場で開封し、鳩湾に臨む清溝関の西方高地を占領、敵砲一門を鹵獲したという快報を読み上げた。露軍は逆襲を企てたが不成功に終わったという。

 「私は今日、幸運をもって参ったわけですね」と私が冗談をいうと、「その通りです。私はこの快報をこんなに早く受けようとは予期しておりませんでした」と答えられた。この占領によって、日軍は露軍がこれまで鳩湾から旅順市街へ糧食を運んでいた兵站線を遮断したことになった。


 鳩湾とは、旅順半島の東端にあり、二〇三高地辺りをはさんで旅順口の反対側にある。房総半島に例えてみれば、旅順は南の黄海に面した外房のような位置にあり、鳩湾は渤海湾に開いた内房のごとき場所にある。

 日本軍は奥の第二軍が南山・金州を落して、陸路のロシア補給路をシャットアウトしていたのだが、どうやら海路はこの時まで補給線が生きていたらしい。乃木軍が旅順要塞の正面を攻めたのは正攻法だとか、二〇三高地はたいした戦略拠点ではないとか、いろいろ書いている人が多いが、乃木軍の展開はそんな単純なものではなかったのだろう。


 年が明けた1月2日に旅順陥落の知らせが届き、ハミルトンは大山総司令官に旅順行きの申請を出した。許可が出て煙台を発ち、16日に遼陽、18日に旅順に移動。1月19日、「われわれ外国武官の一行は、乃木将軍に紹介された。丈のすらりとした気品のある白髯の老将軍で、顔を合わせた瞬間に、明達という感銘を受けた」。20日にさっそく、「死の山」二〇三高地に案内される。まだ地面から人間の首が生えていた。

 この日の晩餐会は、乃木将軍の招待であった。乃木さんいわく、露軍の要塞は旅順港や市街に近すぎた。このため、日本軍の砲弾はその上を飛び越えて、旅順艦隊や陸上施設に損害を与え得た。ステッセルはもう少し遠く前方に、要塞を構えるべきだっただろうと解説している。歓談の間も乃木将軍はあくまで謙虚であり、勝利に奢るというところが微塵もない。

 私にはこの老将軍が軍事に関する世界の新刊書を、多量に読破しておられることを知って驚嘆した。もし私が日本人であったなら、乃木将軍を神として仰ぐであろう。

 
 予言は大当たり。ともあれ、帰り際に、英国に来られる意志があるかどうかを尋ねたところ、自分はもう歳で若い者のように新らしい知識を吸収していく頭脳もないから、もしこの戦争で生き残るようなことがあったら、郷里へ引きこもって余生を送るつもりだと言ったそうだ。これから北上し、奉天に向かわなければならない。この日の会話で特に印象的なものが、「坂の上の雲」にも収録されている。

 私は将軍に対して、旅順攻撃には並々ならぬ苦心をされたと思うが、夜眠られなかったのは、どんな時であったかという質問を出すと、
「旅順の開城した一月二日の晩でしたね、砲声がぴたりと止んでしまって、私はとうとう一睡もできませんでした」と答えられた。

 イアン・ハミルトンは、このあと煙台に戻る。握り飯も凍る満洲の冬、インキが凍ってしまい鉛筆で日誌を書いている。日本軍は黒溝台でミシチェンコを放逐した。2月6日、予定の行動を終えて、帰国するときが来た。最後のランチは大山元帥と児玉大将のお招きに預かった。寒いからと断ったのに、2マイルの道のりを大山巌が煙台駅まで自ら見送った。

 停車場へ着いてから、発車までの二十分間、元帥は吹き曝しの歩廊に立ち尽くされた。
 満洲軍総司令官大山元帥が、わが英国陸軍に示されたこの厚意を私は永久に忘れない。



(おわり)





上野公園には従兄が立っている。  (2018年3月3日撮影)








これは拙宅の大切な撫子。もう十年ほど、咲いています。  
(2018年4月8日撮影)









































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