正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

詩会  (第179回)

 句会という言葉があるのだから、詩会も当然あるだろうと思っていたのだが、検索しても引っかからず、どうやら一般的な言葉ではないらしい。造語かなあ。今回は、戦争の話は一休み。司馬遼太郎は、「坂の上の雲」の「あとがき 一」を、「小説という表現形式のたのもしさは」と始めている。最後の「あとがき 六」でも、「この小説」と言っている。

 他方で、そのあとにある(文庫本の第八巻)、「首山堡と落合」という補足的な随筆においては、「事実関係に誤りがあってはどうにもならず」などと書いており、苦心のあとが伺われる。さらに、いま手元で見つからないのだが、後年の講演録か何かを読んでいたら、「坂の上の雲」を「小説とも何とも云い難いもの」という趣旨のことを述べていた記憶がある。


 秀吉を主人公にするなら、好き放題書いても文句を言う人は少ないだろうが、日露戦争となると、当時まだ生存者もおり、先の大戦で軍人だった人や登場人物の子孫も読む。歪曲や錯誤は許されないため、「すいずん疲れた」という感想を漏らしている。
 
 全体に司馬さんの長編は、似たような傾向があり、「竜馬がゆく」が典型だと思うが、途中までは主人公の行動も会話も、作家の好きにできるのだが、「有名人」になったあとは、資料が多く、実在の人物を扱っている以上、歴史的事実を踏み外すわけにもいかない。後半は退屈という人も多い。


 連載がそういう状況になりつつある旅順の場面で、児玉が提案し、乃木が乗った詩の会は、それがあったことは事実だが、多少は脚色してもよいと考えたのではないかと思う。

 この会については、お付きの田中国重の座談にも、同席した志賀重昂の日誌にも出てくるのだが、至極あっさりとしたもので、「坂の上の雲」に出てくるような、にぎやかさはない。

 そもそも、「詩人としての乃木の絶唱」と評価している「爾霊山」の詩は、この会の後日にできたもので(前者は12月7日、後者は11日)、志賀先生はそちらに傾倒している。さすがの司馬遼太郎も、旅順総攻撃の描写に疲れ、ここで一息入れたかったのかもしれない。


 だいたい、「坂の上の雲」は戦争だけの小説ではない。NHKのドラマは、この詩会を省いているだけでなく、作品の文学的要素をごっそり省いた。そのほうが視聴率が取れると踏んだのだろうが、続けて見ていると(特に子規の死後は)、殺伐とした気分になることがある。
 
 子規の句から始まる小説なのだ。文芸書でもある。特に明治人の偉業の一つといってよいであろう言文一致体の創作は、作家にとってみれば主題の一つに違いない。

 中高の教科書で言文一致運動の箇所は、坪内逍遥二葉亭四迷から始まっていたが(私のころです。今は知らない)、司馬遼太郎によれば活きた日本語文章の創り手は、漱石であり子規であり、秋山真之まで挙げている。古人曰く、勝って兜の緒を締めよと。


 登場人物も、乃木さんのみならず、八代六郎、広瀬武夫内藤鳴雪といった和漢の教養がある人たちに好意を示しているのが、はっきりわかる。ついでに引き立て役として、文才のない児玉源太郎秋山好古の作品まで文学史に残してしまった。

 この旅順の詩会以降、情緒的な場面といえば、最後の最後、真之が子規の墓参りに行って雨に降られるまで無い。別の言い方をすれば、これまで屍山血河の旅順戦が続き、最後に近いところで、この会を入れたくなるのも、娯楽小説家としては一種の読者サービスと受け止めて良いように思う。では、その場面はどう始まるか。


 この夜、乃木に、
 ――― 二人で詩会をやろう、
といったのも児玉の愉しみとはべつに、彼の心くばりのひとつであったともいえる。乃木は作戦においてやぶれた。が、詩人としての乃木は児玉よりもはるかに優越していた。

 児玉にすれば詩会をやって詩人としての乃木を慰撫しようとしたのかもしれない。この両人の長州人としての友情のあつさは、後世の人間の想像を越えたものがあるようであった。

 
 私なりに行間を読めば、児玉の活躍で乃木の自尊心が傷つき、児玉としては友人をこのまま置いて帰るに忍びなかったといったところでしょうか。もちろん異論はないが、今回は僭越ながら少しばかり補足を試みる。乃木の傷心は、言うまでもなく「作戦でやぶれた」だけではなく、長男に続き次男も亡くしたばかりで、大勢の部下が今もなお毎日死んでいく。

 これでは、まだ落ちていない旅順要塞の戦いが、児玉帰還後に上手く運ぶのかどうか、お互い不安があっても仕方がないだろう。さらに、児玉にとってみれば、一刻も早く乃木の第三軍には、北進してもらわないと困るのだ。まあ、こういうことは、この場面に書いていないだけで、他の箇所にちゃんと出てきますから、私の発見でもなんでもない。児玉は乃木さんの感情の整理に勉めたということだ。


 志賀重昂著「旅順攻囲戦」より。「坂の上の雲」の「二〇三高地」にも出てくる「得利寺」で始まる児玉の自信作(右側)と、「死あって生なし」で始まる乃木の粗稿(左側)。


 詩会では、児玉が「臆面もなく」、乃木の詩の言葉遣いに口をはさんでいるが、これは志賀重昂が実際に見て書き残している。乃木さんも、「素直に」なおした。遊んでいる。詩人としての乃木希典は、子規のサロンのような環境では、落ち着いて詩作ができないたちなのだろう。両人とも、それを知っての気分転換であり、心機一転のお別れ会だ。

 詩会が終わって両将軍が去ると、志賀先生は急に寂しくなった。捕虜になったロシア軍人に石鹸と手拭を渡すと、涙を流して感激したそうだ。うち一人は、ステッセルが陸に揚げた海軍軍人だった。

 長かった旅順戦が終わろうとしている。戦友の一人が、「弾尽きて明日は旅順をステッセル」という句をものにした。この夜、志賀先生が外に出ると、兵舎から「君が代」が聞こえてきた。



(おわり)



 

飛鳥山の近くにある日露戦役の碑  (2018年9月16日撮影)

































.