正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

二十八サンチ榴弾砲  (第180回)

 以前も参考文献にした「日露戦争秘史」(朝日新聞社編)を、今回も、現代かなづかいに置き換えつつ引用します。公刊戦史ではないが、実戦経験者の話だから貴重だし、座談会だから大嘘はつけまい。その前に、今回の話題である二十八サンチ榴弾砲について、「坂の上の雲」文庫本第四巻にある「旅順」の章に、この兵器の概説があるので、そこから始める。

 この大砲は「沿岸砲」と呼ばれ、紀淡海峡(大阪湾への入り口)や、東京湾口などに据え付けられていた沿岸警備の武器だった。「この大砲の祖型はイタリアにあった」と書かれている。また、明治十六年に試作したものの、日本には大砲を製造するために必要な良質の鋳鉄をつくる技術が無かったため、「イタリアのグレゴリーニ鋳鉄を輸入して、翌十七年にできあがった」とある。


 つまり、設計図も原材料も、イタリアから持ち込んだものだ。これについて、前掲「日本戦争秘史」において、「星野大将」すなわち日露戦争時、児玉源太郎の部下で総司令部参謀だった星野実信少佐が、面白いエピソードを披露している。

 「その弾丸は、大山元帥がイタリーに行かれたときにあの式を取入れられたもので、大山さんが『あれは私が輸入したものだ』と言われたことがある」と語っている。「その弾丸」というのは、このあとで引用するが、その前段にある発言の中に出てくる二十八サンチ榴弾のことだ。

 大山元帥というのは、もちろん総司令部の親玉だった大山巌司令長官で、さすがは弥助砲の発明者、技術的な観点も先見の明もあった。薩摩は英国と砲戦を交わしているし、戊申の役でも使っているから、その威力と効果は身に染みて分かっていただろう。


 「坂の上の雲」に載っていない逸話を一つ。第三回総攻撃の最中、ロシア軍がこの二十八サンチ榴弾を撃ち返してきた。この座談は、「奈良大将」即ち当時、乃木の第三軍にいて「攻城砲兵司令部員」だった奈良武次少佐によるもの。私も驚いたが、彼はもっと驚いただろう。

 二十八サンチ榴弾砲は、不発弾が多く、奈良大将の回想では「五発撃てば、四発破裂し、一発が不発という程度」だったらしい。ロシア軍から撃ち込まれて来た砲弾の砲底に「大阪」という字が読めた。このため、撃ち返してきたのか、それとも弾薬が流出したのではとまで疑ったらしい。


 落城後に旅順要塞の引渡のため豊島将軍と奈良少佐が、ロシア引渡委員の「ベーリー長官」の官邸を訪ったところ、日本軍が撃った二十八サンチの不発弾が飾ってあった。はたして、ロシア軍もイタリーから輸入したのか、よく似た規格の榴弾砲を持っていて、多少の操作をしてから撃ち返したそうだ。

 しかも、奈良少佐が目撃した敵弾は、どうやら信管を艦砲射撃用のものに換えたらしく、日本の砲弾より破壊力が強くて、第三軍の「大きな砲台と砲床を一緒に跳ね上げた」そうだ。ちなみに、このベーリー長官という人は、「坂の上の雲」文庫本第五巻の「水師営」に出てくる「要塞砲兵部長 ベールイ少将」と同一人物と思われる。


 児玉と乃木が詩会を催した12月7日、前々日に二〇三高地を奪われた旅順要塞のロシア軍司令部はそれどころの騒ぎではなく、ステッセルが作戦会議を開き、その模様と後日談が「水師営」にある。コンドラチェンコが「防戦はこれからです」と、「沈滞した会議の空気を叩き壊すような語気でいった」。

 戦術の提案としては、二〇三高地を取られた以上、鳩湾附近に兵を置いておく必要はなく、この陣地を半島先端の老鉄山まで下げて、要塞の防御を強化すればよいというものだったらしい。この鳩湾というのは、児玉源太郎が英国観戦武官スタンレー・ウォッシュバンに語ったように、ロシア軍の兵站の要所だったというから、二〇三高地の占領は、ロシア軍を補給なしの籠城に追い込んだことになる。


 主将ステッセルと師団長フォークは、この背水の陣のようなコンドラチェンコ案に、なかなか賛成しなかった。籠城する意味があるとすれば、その間に、バルチック艦隊が到着しなければならないだろう。クロパトキンとの連絡は途絶えていたようだし、バルチック艦隊の位置は、ロシア本国の外務当局すら知らなかったという、信じがたいエピソ―ドが紹介されている。ロシア旅順軍は、戦略的に不安定な位置にあった。

 司馬さんによると、この日の会議はコンドラチェンコの提議が採択されたものの、その後のステッセルらの指揮が「緩慢」で、前線を支え続けているコンドラチェンコは、ゴルバトフスキー将軍に「ステッセルとフォークを逮捕して、ペテルブルクに送ってしまう」という強硬策を提案したが、さすがに抑えられている。


 前掲書の説明によると、コンドラチェンコ少将は、「陸正面防衛司令官にして、旅順要塞の防衛法は全て少将の考案と指揮によったのである。十二月十四日午後八時、東鶏冠山北堡塁の状況視察に行き入口の部屋に達したとき、我二十八サンチ榴弾が天蓋を破って突入破裂したので、少将は随行の二中佐と共にその場で戦死、堡塁長以下、多数の下士兵が死傷した」とある。

 「坂の上の雲」では戦死日が12月15日になっている。敵軍の士気の低下は、日本軍の諸資料にも出てくるほどに目だった由。そして、12月18日に9時間の激戦の末、とうとう日本軍が東鶏冠山北堡塁を爆破、占領したとき、投降した捕虜からコンドラチェンコの戦死を知った。捕虜は「あの人が死ねば、これ以上の交戦はむずかしくなるだろう」と悲し気に首を振っている。


 前掲書の奈良大将の発言では、戦死日は12月15日になっていて、それはともかく、前出のベーリー将軍が、「コンドラチェンコが死ななかったら、まだあの要塞はお渡ししなかったはずだが」と語ったそうだ。彼が創り上げた要塞は、無数の日本兵の命を奪い、結果から見て、彼の被弾とともに事実上の落城となった。

 平塚柾緒著「旅順攻囲戦」によると、12月18日に第十一師団が東鶏冠山を占領、同29日に第九師団が二竜山を奪取、同31日には第一師団が松樹山を陥落させた。1904年(明治三十七年)の最後の日、コンドラチェンコの三大要塞が敵の手に落ちた。翌日、元旦を迎えた日本軍は午前9時から旅順市街への砲撃を開始し、市街地にあるロシア軍司令部は、2時間後の午前11時に白旗を掲げた。



(おわり)




王子の滝乃川親水公園にかかる橋。
この場所は子規の「王子紀行」に出てくる。
不拙が橋の欄によりかかりながら、
子規と鳴雪の姿をスケッチした絵が残っている。
(2018年9月16日撮影)


























.