正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

朝鮮少女の服  (第184回)

子規が住んでいた根津(今の東京都台東区)のすぐ近くに引っ越してきてから、十年余り経つ。大病と失業のあとだったから、しばらくは半病人の生活でした。どうやら五十代は生き延びそうだぞ。来年、満60歳になります。

越してきたばかりのころ、近所ではしばしば、チマチョゴリを見かけた。隣の荒川区に東京朝鮮第一初中学校があり、ずっと前から暮らしている人に聞いた話だが、その学校の制服であったとか。過去形なのは、もう変わってしまったからで、今ではほとんどチマチョゴリを見ない。ムクゲの花はたくさん咲くけれど。


5年ぐらい前だったか、ヘイトスピーチのデモ隊が、拙宅のそばにも何回か来た。これは荒川区に中国系と朝鮮系の人が多く住んでいることと無縁ではあるまい。いずれも人口比では、東京二十三区で一位二位を争うほど多い。

これは歴史があるそうで、かつて荒川区役所の資料でたまたま読んだのだが、隅田川に面しているとあって明治時代以降は水を要する工場群があり、製造業が盛んであったらしい。人手が足りず、多くの人たちが半島や大陸から、そのころ移り住んできたとのことだ。つまりもう四世とか六世とかの世代になっていて、遠目では全く区別がつかない。聞いたところでは、むかし済州島から渡ってきた人が多いという説もある。


たまにJRの日暮里や鶯谷の駅前商店街などですれ違うと、言葉が違うのでようやく大和民族と区別がつくくらい地元になじんでいる。そういえば、この辺りは韓国料理店や中華料理店が多く、さすが、安くて美味い。高いところもあるが、味は知らない。

私自身も海外での駐在が合計二回8年を越え、違う民族や違う宗教が同じ地域に住み、同じ職場で働くことに何の違和感も持たない。もちろん小さなことでぶつかることはある。でもその頻度と程度は、嫌な日本人相手より、ましだった。アメリカでジャップと言われて石を投げられたことがあるが、それすら懐かしい思い出になるくらい珍しかった。


だから、ヘイトスピーチに、この私は怒った。自営業で、最近はITだけで仕事が終わることも珍しくなく、自宅で働いていることも多い。そんな昼間に、スポーツの応援団みたいな怒鳴り声と鳴り物入りで来る。時間と体力は、そういう風に使うものではない。

三年ほど前に、取締法ができてからは、ヘイトデモも来なくなった。さすがに、不法行為であることは分かるらしい。でもその前は本当に酷かった。たまたま、擦れ違った制服姿の若いお巡りさんに、「あの、ヘイトスピーチのデモ、何とかなりませんか」と頼んだことがある。「ヘイトスピーチって何ですか?」と訊かれた。

「あの、やかましいデモのことです」と言ったら、すぐに分かってもらったのだが、「道路交通法の違反でもない限りは...」と首を振ってみえる。民事不介入です。確かに法的根拠もないとき、やたらと取り締まられたらかなわん。


正岡子規は以前このブログでも取り上げた日清戦争の従軍記の中で、当たり前のように「チョン」などという言葉を使っているのだが、中国滞在中(正式には清国)、現地の人を小馬鹿にしたようなことは何も書いていない。むしろ彼の論敵は、傲慢極まる近衛の部隊だった。

その子規が、チマチョゴリを見たときのことを「仰臥漫録」に書いている。「朝鮮少女の服」と表現しており、当時はチマチョゴリという言葉は一般的ではなかったのかもしれない。「仰臥漫録」は亡くなる前年の明治三十四年(1901年)から書き始めており、このころ子規はもう仰臥したままで起き上がれない。


1901年、彼の上司であり勤務先「新聞日本」の社長でもある陸羯南は、近衛篤麿(文麿の父)らと共に、朝鮮半島に渡ったそうだ。詳細な目的は知らない。この人物のことだから、きっと取材だろう。そして、写真や物産を抱えて戻ってきた。

羯南は子規のご近所でもある。まず数十枚の写真を届けてみせてくれたと、「仰臥漫録」の明治三十四年九月三日の日誌にある。例によって何を食べたか、詳細な説明が毎日続く。彼にとって食事は、文藝と並んで一番の楽しみでもあり、生きていくための大事業でもある。


翌々日の九月五日、「陸細君」は二人の娘さんを連れて、正岡家にやってきた。子規によると、「巴さんとおしまさん」という。うつると恐ろしいことになる病気なのに子規の周囲は、家族も句会の仲間も、友人も社長も全く気にせず出入りしていた様子である。

母娘のご来訪目的は、「陸氏の持帰りたる朝鮮少女の服を巴さんに着せて見せんとなり」ということで、正岡家相手のファッション・ショーだった。子規の感想は、「服は立派なり 日本も友禅などやめてこのようなものにしたし」と、なかなか前衛的なことを書いている。一句、浮かんでいる。

 芙蓉よりも朝顔よりもうつくしく

 



チマチョゴリにもいろいろあるのだろうが、うちの近所でよく見たそれは、白が基調で淡い着色がしてある華やかなものだった。いきなり物騒な話題になるが、太平洋戦争時に曳光弾を見た人たちの感想の中に、朝鮮半島の御婦人の色合いのようだったというのを複数、見たことがある。

子規は文章だけではなく、絵まで描いている。墨なので色の説明も字であらわしている。「袴の紐白」とあり、たしかに帯のところは、墨は殆ど使っていない。はかまは「上の袴紫」、「中の袴黄」、「下の袴も黄にして短し」と書いている。絵をみると中の袴というのが、チマのことらしい。


関連記事はこれだけで終わっている。これが私の印象に残っているのは、子規の絵が(後年は特に)、食べ物と草花がほぼ全ての中で、晩年にしては珍しくポートレートであることだ。あれだけ人間というものに興味を示した男なのに、句と絵には不思議と人が少ない。この日の締めの句は二つ。当日は夕立でも降ったのか、雷鳴を聴いたらしい。いきなり「馬」と「仏」だが、仏具の「払子」のもらい物があったようなので連想したものか。

 馬の毛に仏性ありや秋の風
 神鳴の晴れとも秋の暑さかな



(おわり)



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上野の紫陽花  (2019年6月16日撮影)























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