正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

築地 (2の2)  (第203回)

前回の続きで、同じ日の散歩です。散歩とはいえ、暑くて苦行のごとし。それでも場外は大勢の人出でした。外国人観光客も多い。

海軍兵学校について、「坂の上の雲」の文庫本第一巻の「海軍大学校」という章に、秋山真之が兄の好古に「海軍兵学寮」というのはどこにあるのかという質問が出てくる。


この「寮」と「校」は、建物も組織も場所も同じもので(海軍士官の養成学校)、明治九年に名称が変わった。すなわち真之が進学を希望したころには、すでに海軍兵学校になっています。

その後、海兵はこの築地から広島の江田島に移転します。私はごく最近まで、「えだじま」と呼んでいましたが、「えたじま」が正しい。近いうちに呉に行く予定なので、時間と金の余裕があれば、ぜひ立ち寄りたい。


この海軍兵学校の跡に建てられた石碑が、築地に残っています。揮毫しているのは、「海軍大将子爵齋藤實」。二・二六事件で凶弾に斃れた要人の一人。

そのうらに、読みづらいのですが、三行の履歴が記されており、上記の通り海軍兵学寮の設立、海軍兵学校への改称、江田島への移転です。



見てとおりで、「海軍兵学寮跡」になっています。「跡」になったのは江田島に移った後なので、兵学校の跡地であるはずですが、斎藤実大将が江戸時代の生まれで、海軍兵学寮の出身であるため、つい思い入れが出たか。

なおその隣には、「海軍軍医学校跡」という碑もあって、この二つの石碑だけ立っています。説明版のようなものもない。わずかに石や金属でできた囲いの一部が残存するのみです。


場所のご案内です。前々回の地図を見ると、埋め立て地に運河が走っているのが見えます。このうち、現在の国立がんセンターのすぐ裏(北側、内陸側)を、いまは首都高環状線(C16)が走っています。

ただし高架ではなく、かつての運河の水面近くに路面があるので、眼下です。石碑は国立がんセンターの敷地内に位置するはずで、うろうろ歩いていると、駐車場の出入口なので迷惑をおかけしますし、危ない。


近くには案内版もありませんが、その代わり私が利用した東京メトロ日比谷線の東銀座駅の6番出口から地上に出ると、近隣の地図がありますので、これで位置を確認できます。


正直に申しますと、事前に小説等を読んで「寮」が「校」に変ったのを知っていながら、現場に立って石碑をみたとき「寮」の字に引きずられ、学校の寮というと、ここで集団生活を送っていたのかと感慨を深めました。

実際は寝床ではなく、学校そのものです。「坂の上の雲」によれば、近くにあった大名屋敷の幾つかを取り上げ、海兵を含む海軍施設の敷地にしたようですから、明治維新は旧武家階級(特に「賊軍側」)にとっては、厳しい時代の変化でした。



(おわり)



石碑二つ  (2023年8月16日撮影)














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