蘆花 (第199回)
徳富蘆花を話題にするのは、彼の旧宅を訪問して以来のことかと思います。その時も今回も、きっかけになったのは同じ文章で司馬遼太郎「坂の上の雲」のあとがき。
私の同作品の蔵書は、黄色い背表紙でおさ馴染みの文春文庫全8巻です。もっとも、最初に刊行されたであろう単行本は全6巻だったようで、文庫版に収録されている「あとがき集」には、一から六までのあとがきがあります。
今回は「あとがき五」。内容は雑感のようなもので、「私は少年のころ、父の書架に、正岡子規と徳富蘆花の著書またはそれについての著作が多く、つい読みなじんだ」と始まります。
この私の少年のころ祖父や父の書架には、吉川英治やと司馬遼太郎の著作が多く、つい読みなじんでおります。話を戻すと、続きには「この二人はほぼ同時代でありながら文学的資質に共通点を見出すことがむずかしい」とあります。
司馬遼太郎にとって大きな違いは、「蘆花によって知ったくらい明治」と比べ、「子規の明治というものが底抜けに明るかった」。「坂の上の雲」で司馬が使っている明治時代の楽観主義(オプティズム)とは、子規の影響が大きいはずです。
子規がいつも楽観的な人物であったかどうかは、また別の問題です。「金にも健康にも恵まれず、独身のまま死んだ」男でした。彼の随筆を読んでいると、ときどき胸が苦しくなります。同時に時代の明るい気分も確かに伝わってくる。
司馬が蘆花との共通点を見出したのは、真之でした。共有していたのは「憂鬱」だと書いています。蘆花の場合、国家主義的な父と兄を持ち、家族の関係を断つほどまでに、明治という「国家の重苦しさに堪えきれず」にいた。
例えば「寄生木」のような、新海の如く暗い小説を読まされて少年時代の司馬を悩ませたらしい。真之の場合、家族関係ではなく、戦争という「劇的な環境」に身を置いたために起きました。あとがき五から該当の部分を二箇所、引用します。
私は少年のころに子規を知ったころから、真之が子規の下宿へ置手紙をして去ってゆくという、下宿を去ってゆく真之の背まで見えるようなその別れに、目に痛いほどのおもいをもって明治の象徴的瞬間を感じた。
日本海海戦において旗艦「三笠」の環境上にいたかれが、かれの立案した戦術によって最初の三十分の猛射のあいだに大局を制したとき、敵味方の惨状をみて深刻な衝撃を受け、この後のかれの精神は海外部内のひとびとのいたわりの中で守られた。
司馬遼太郎はこの文章の中で、幸徳秋水の大逆事件を一例として挙げつつ、日露戦争後の日本について、「ただ戦勝後、変わった」、「戦争がその国を変質される作用は、破れた側よりも勝った側において深刻である」と主張しています。
この重苦しくなった国家に、蘆花は堪えがたさを覚え、司馬は真之も同様に、何か支えのようなものを日露戦争で失ったのではないかと書いて、あとがきを締めくくっています。この問題提起を忘れずに、この先の読書を続けて参ります。
ちなみに、蘆花という一般名詞は、アシ(蘆、葦)の花のことです。下の写真は、葦の原で春になると良く姿を見かける小鳥です。このあと葦の原には、オオヨシキリも来てにぎやかに鳴きます。
(おわり)
オオジュリン (2023年3月9日撮影)
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