正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

この戦争をやった二人  (第205回)


久しぶりの投稿だ。近年、ほかのテーマのブログで忙しく、愛着があるこの欄になかなか手が回らない。能力の限界で、まずはどこかを訪ねたり、資料を読むなりしてインプットと準備をしないと記事を書けない。今回はたまたま、材料に再会した。

司馬遼太郎竜馬がゆく」の文春文庫にも、「坂の上の雲」と同様、単行本発行時の「あとがき」が収録されている。そのうち「あとがき二」の冒頭に次のような感想が載っている。

ようやく、第二巻目を書き上げ、ややぼうぜんとしている。筆者はなお、この若者とともに長い坂をのぼらねばならない。


この若者というのは、もちろん主人公の坂本龍馬なのだが、このころから坂をのぼるのが好きだったらしい。この「竜馬がゆく」の最後の「あとがき五」に陸奥要之助の名が出てくる。

坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺され、龍馬に心酔していた陸奥海援隊から同士を募り、犯人と見定めた紀州藩の要人と、一緒に宴を開いていた新選組の座(天満屋)を襲撃し、死者を出した。だがこれは、人違いであったと著者は書いている。


その要之助が、陸奥宗光という立派な名前に改称して後、外務大臣となり「坂の上の雲」に登場する。日清戦争のとき、この外相陸奥と、陸軍の参謀次長だった川上操六が主戦論者だった。戦法は短期決戦。「日清戦争」の章で司馬はこう書いている。

短期に大勝をおさめる仕事は川上が担当し、しおをみてさっさと講和へもってゆく仕事は陸奥が担当する。この戦争は、このふたりがやったといっていいだろう。


長い目で見れば日清日露で戦争に勝ったものの、勝って兜の緒を締めることもなく、「さっさと講和へもってゆく」という心がけも外交手腕もないままに大戦争を仕掛け、今のところ世界大戦で最後に負けた国になった。

日清時の陸奥宗光、日露時の小村寿太郎という二人の外務大臣は、戦争と講和で相当苦労したのがたたったのか、政治家としてまだまだこれからという年齢で病没した。


その陸奥宗光が住んだことがある家屋が近所に残っており、ずっと前にいっぺん見物にいったままだったが、先日、大通りを歩いていたら見覚えのあるその古い洋館が見えた。冒頭の写真がそれ。壁にあった説明版の写真3枚をアップする。


今回は所用があり急いで歩いている最中だったので、写真の出来が余りに悪いのだがご容赦願いたし。中学校の教科書だったか、「かみそり陸奥」という彼に関するコラムがあったのを覚えている。

その写真だったか絵だったかは、おっかない顔をしていたものだ。ご近所の陸奥夫妻の写真は、すこし風情が違う。


(おわり)

ポートレート  (2025年10月21日撮影)












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