正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

松山にて  (第200回)

前回の蘆花と子規の話題に続き、今回は子規と真之の話です。出典は同じく司馬遼太郎坂の上の雲」(文春文庫)の第八巻に収録されている「あとがき 一」。

楽天家たちは「のぼってゆく坂の上の天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう」の続きに、のぼさんの話題が出て来る。青字で引用します。


 子規について、古くから関心があった。
 ある年の夏、かれが生まれた伊予松山のかつての士族街を歩いていたとき、子規と秋山真之が小学校から大学予備門まで同じコースを歩いた仲間であったことに気づき、ただ子規好きのあまりしらべてみる気になった。


 取材と連載に十年ほど要することになった長編小説は、散歩の途中に思いついたのがきっかけのようです。悪くない。ちなみに私もかつて一度だけ、松山の街を歩いたことがあります。

 ただし、「坂の上の雲」を買ったのが新入社員のときで、松山を含む四国旅行の一人たびは大学生のときでしたから、子規も真之も念頭になかった。道後温泉に浸かりたかったのです。それだけで帰ってきましたから、格調が違う。


 青字引用部分を読み返します。古くから子規に関心があったというのは、前回の趣旨に沿えば、父親の蔵書のうち子規の著作が愛読書であったことを指すのだと思います。

 後の回で触れますが、司馬と子規は同じ作家でも子規は詩人。結核も繋がりはない。でも文体や「明るさ」には魅かれたようです。松山行きも子規の故郷を詣でたようで、よほど気に入っていたらしい。それに司馬遼太郎は、相手が何処の出身なのか、よく気にするひとだったそうです。松山の空気を吸いに行ったようなものですか。


 そこで吸った空気と同じものを、秋山真之も吸っていたことに「気づいた」ということは、前から出身地も含めて、それ相応に真之のことを知っていたはずです。二人が同郷で同窓だったことは、子規の随筆に出て来ます。

 もう一つは推測ですが、秋山真之司馬遼太郎は、陸海の違いこそあれど、同じ大日本帝国の軍人でした。それに、秋山参謀は昭和になって一般の知名度は落ちていたかもしれませんが、帝国軍人にとってみれば日本海海戦の立役者の一人です。後世の司馬(本姓は福田)青年が、その名と戦績を知っていてもおかしくありません。

 
 これに続く「あとがき」を読むと、あくまで私の印象ですが、兄の好古は真之の生育歴など調べている内に、騎兵隊の生みの親であったことを知ったか、詳しくなったかのようです。

 もっとも、こちらも軍隊つながりで申せば、同じ陸軍の大先輩ですし、好古は騎兵、司馬は戦車と、陸軍では機動性の高い部隊の将校でした。前々から知っていた可能性もあります。

 騎兵は先の大戦時もまだ残っていましたし、そもそも日露戦争は陸海軍にとってお手本かつ戦勝祈願の対象のようなものでしたから、士官学校等で騎兵についても学んでいたかもしれません。


 「坂の上の雲」の第一巻第一章は「好古」です。この冒頭の章においては重要な観点として、この兄が真之を世に送り出した恩人であり、さすがの真之も頭が上がらない兄になった経緯、背景に詳しく触れています。

 独断で申し上げますが、主人公としての優先度、重要度を敢えてつければ、最初のうちは子規、真之、好古だったような感じがする。しかし、子規はやがて死ぬ。真之は娯楽小説の主人公にしては、偏屈で軍事以外の多種多様なエピソードに乏しい。この点では広瀬のほうが小説向きです。


 信さんは話題が豊富で、騎兵という新戦力の開発育成に、ほとんど一人で立ち向かい、そのくせ黒溝台の戦いでは、騎馬から降りて機関銃部隊になっている。真之や子規と比べ、社交もできる。詩は下手だし、手紙が面白い。手紙が面白い人物が司馬遼太郎の好みであることは、坂本龍馬も太閤秀吉も同様です。

 真之が海軍に入る決心をしたのは、「坂の上の雲」第一巻によると、彼と子規が東京の大学予備門で学問にいそしんでいたころでした。秋山家の財政事情は、結局、兄弟二人が軍隊に入って早くから経済的に独立することで、何とかなったようです。


 しかし、学費を理由に海軍兵学校への移籍を相談すると、好古兄が怒り出すのは目に見えている。そこで小説の真之は、自らの職業適性を題材に、兄に進路相談をしております。

 そちらは上手く運んだものの、子規との別れが気がかりでした。真之は置手紙をして去る。かつて子規が徹夜の勉強中に寝ていたら、真之の手で壁に子規の「人ガタ」を鉛筆で採られてしまっており、それを見て泣いた。このことは、子規の「筆まかせ」に出ているかと探しましたが、私の蔵書である抄本(岩波文庫)には収録されていません。


 このとき本当に泣いたのかどうか、資料を見つけられないでおりますが、司馬遼太郎が連想しておかしくない歌のことなら、真之が渡米前に、根岸の正岡家を訪ね、そのあとで子規がうたった句が新聞日本に載りました。子規は生涯、正業としては新聞記者です。墓碑を読めばわかる。


 秋山真之ノ米国ニユクヲ送ル
  
  君を送りて思うことあり蚊帳に泣く


 渡米した真之は海軍大尉になっている。一方、子規はこの三年ほど前の日清戦争の従軍記者で無理をし、血を吐いて須磨で入院、松山で静養、以後は療養しつつ根岸で新聞記事や随筆を書いていました。第二巻「渡米」にこういう箇所があります。

 あの日、真之が去ったあと、おそらく「蚊帳に泣」いたのかもしれない。真之はそう思った。


(おわり)

 

子規の随筆にも出て来る根岸の御陰殿坂にて  7月4日










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