正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

2015-01-01から1年間の記事一覧

オイ加藤  (第78回)

ようやく「肉弾」の中身に入る。今回に限らず引用の際、漢字の字体や仮名遣いは現代のものとします。変換が大変なのだ。そもそも書名からして、本当は「弾」ではなく「彈」という旧字体だし、「肉」の古い表記に至っては、私のIMEパッドでは見つからない。 …

セオドル  (第77回)

先日ニュースで、ディープ・パープルがアメリカのロック殿堂入りを果たしたという記事を見た。今ごろになって何事か。シカゴと同期だという。イギリスのバンドは後回しなのであろうか。パープルを軽視するような殿堂など用はない。 私は他のブログでレコード…

後付けと検印  (第76回)

「後付け」とは麻雀用語にもあるが、他の意味もあり、製本業界で使うそうだ。素人の私は、本といえば表紙と本文からなると思い込んでいたのだが、言われてみれば確かにそれらの間には付録がある。上表紙と本文の間にある「献辞」や「まえがき」などを前付け…

肉弾  (第75回)

手元に古い本が一冊ある。おそらく私の蔵書の中で、最も昔に発行されたものだと思う。奥付によると、昭和8年5月10日に印刷され、同15日に発行とある。ちょうど私の母が生まれた頃で、昭和8年(1933年)というのは今上がお生まれになった年でもある。 ただし…

双眼鏡 その名はツァイス  (第74回)

1905年5月27日、夜の日本海。当日、波高くして戦場に殆ど出られなかった駆逐艦や水雷艇は、午後の大海戦で味方の連合艦隊が蹴散らかした敵艦を探し求めて、暗闇の海へと出撃した。大雑把な理解しか持っていないが、駆逐艦とは魚雷により、水雷艇とは機雷によ…

信さんの歩いた道  (第73回)

三人の主人公のうちで、これまで、このブログに一番登場回数が少なかったのは多分、秋山好古だと思う。これは彼が気に入らないからではなくて、その逆であり、お楽しみは後にとっておいてあるのです。司馬遼太郎も、その筆致からして秋山兄弟のうちでは兄貴…

大原氏ニ養ハル  (第72回)

今回は話題があちこちに跳ぶ。文字どおりの雑記帳です。こうして、いろいろ読書や調べ事をしていると、何だかんだと人や土地に相互の関係があって、それを知るのも地理・歴史好きの楽しみである。どこから始めるか。最初は今、中断している「小寺文書」とい…

仰臥漫録 秋二題  (第71回)

子規の「仰臥漫録」から、あと二つほど秋に書かれた日記の話題を出します。前回触れたように、この日記はどんな事情か知らないが、二冊に分かれている。原本は虚子記念館にあるそうで、私は現物も写真も見たことがないが、二冊目の表紙「仰臥漫録 二」という…

挙兵  (第70回)

今日は前回の書き残しを記すのみなので、正岡子規や「坂の上の雲」とは殆ど関係ないです。でもそれでは淋しいので強引に関係づける。子規は「仰臥漫録」の第二巻において、広重の東海道五十三次を話題にしている。日付は無いが、亡くなる年の7月から9月の間…

湯河原  (第69回)

前回、旅の記憶が新鮮なうちに書こうと言っておいて、日が経ってしまった。今月は妙に忙しい。さて先月、一泊二日の小旅行で湯河原に行ってきた。読んで字のごとく、温泉街である。東海道線に乗って東京から西に進むと、湯河原駅が神奈川県の最西端の駅であ…

病床の食欲と体調  (第68回)

何だか真面目なタイトルだが、子規の「仰臥漫録」における食欲と体調は、尋常のものではない。約一年後に亡くなる重病人の食欲としては、子規について書く人が皆、好んで取り上げるように旺盛なもので、同年代のころの普通に働いていた私より多分たくさん食…

明治三十四年九月  (第67回)

正岡子規の日記「仰臥漫録」は、明治34年の9月に書き始められている。最後に入っている日付は翌年の7月で、その翌々月に他界している。なぜ、これを書き始めたのか、私の知る限り彼は理由を明らかにしていない。題名の通り、容態が寝たきりになったことは明…

瓜生少将の挑戦状  (第66回)

話題がころころ変わるが、今日はご近所の地図から始める。手元に明治の終わりごろか大正の初めごろに書かれたらしい近所の地図がある。当時のことだから、正確な測量に基づくものではないが、そこに住むものにとっては一目瞭然の目印がたくさんある。 地図と…

何とかチェンコ  (第65回)

今日は雑談風の短い文章です。今年も物騒な事件が多発しているが、特に去年から延々と続いているウクライナ情勢の悪化がキナ臭い。あの爬虫類のような目をしたロシアの大統領は、公然と核戦争の準備があると述べた。ウクライナの地でチェルノブイリ原子力発…

宮古島再訪  (第64回)

永井荷風の「西遊日記抄」は、西暦千九百三年すなわち日露開戦の前年に始まる。明治三十六年、つまり子規が亡くなった翌年だ。よく似た名の「西遊記」は、高僧が天竺にお経を求め、苦難の長旅をする物語だが、荷風は本当に遊んでいた感じがする。もっとも最…

時雨傘  (第63回)

こちらのブログは、近ごろ筆が鈍っている。その責任は内閣総理大臣にある。世の中が一気にキナ臭くなった。私は国防も自衛隊も大切に思うが、この状況下で延々と戦争場面の感想文ばかり書いていると、これでも客商売だから、あらぬ風評被害に遭っては困る。…

春や昔  (第62回)

ずっと戦争のことばかり書いていたので何だか疲れてきた。おまけに実世界もキナ臭くなってきて、別のブログでも怒り心頭に発し、どうやら神経がささくれ立っているらしい。ということで暫く子規や文学のことを話題にしようかと思う。今回のタイトルは、もち…

まだ沈まずや定遠は  (第61回)

小松左京の金字塔的名作SF小説、「日本沈没」の終盤。沈みゆく列島から離脱する船の上で、主要登場人物の一人、中田が「まだ沈まずや定遠は」と口ずさむ場面がある。これを初めて読んだのは中学の一年生か二年生のころで、全く意味が分からず読み飛ばした。…

鏡のごとき黄海は  (第60回)

宣戦布告の前に戦闘行為をしても国際法違反にはならないのだろうか。今はどうか知らないが、日清戦争のとき陸軍は朝鮮半島で、海軍は豊島沖で既に清国と戦い、幸先よく緒戦を制している。英国世論は東郷艦長が国際法を順守したとの理由で沈静したという。外…

万国公法  (第59回)

小説「竜馬が行く」のあとがきに、日露戦争の話題が出てくる。「皇后の奇夢」という記事が都下のすべての新聞に載るという一大事が起きた。ロシア帝国との国交が断絶した1904年2月6日、連合艦隊が佐世保を出航したその夜、葉山の御用邸にて避寒中の皇后陛下…

豊島沖  (第58回)

印象として、日本国が明治維新や西南の役を経由しつつ富国強兵の看板を掲げ、ひとり気勢を上げていたころ、近隣の諸国は不調であったらしい。ロシア帝国は「坂の上の雲」の時代から、そう遠くない将来に悲惨な末路を辿る。清国も同様に老朽しており、しかも…

蛤御門  (第57回)

学生時代を過ごした京都で、その後半は原付を乗り回していたのだが、ある日スピード違反でパトカーに捕まった。速度がオーバーしていたのは知っていたので、大人しく連行されパトカーの後部座席で切符をもらった。大した額ではなかったので交通違反そのもの…

鴫立沢の別荘  (第56回)

以下の殆どは、新潮文庫「白洲正子自伝」から引用・転載したものです。彼女の父方の祖父は、前回ご紹介した橋口覚之進あらため樺山資紀。津本陽「薩南示現流」の葬式場面も、この自伝に引用されている。母方の祖父は、こちらも同じく薩摩出身の川村純義。 自…

一番焼香  (第55回)

前回の寺田屋で片足を斬られながら、もう一方の脚だけで戦って倒れた橋口伝蔵には覚之進という弟がいた。覚之進は三男だったからか、樺山家に養子縁組に出された。のち資紀と名乗る。読み方は「しき」ではなくて「すけのり」。 いまから数年前に彼の孫娘、正…

勇気  (第54回)

陸軍の話題が長く続いたので、そろそろ海軍に移ろうかと思う。そして時代は日露戦争ではなく、その前の日清戦争を舞台にするつもり。しかも、その更に前から書き起こす。これには事情があって、薩摩のことを考えたかった。 日清・日露の戦争において、野戦司…

小園の記  (第53回)

子規のファンは、彼の文章が明るいと口をそろえて言う。もちろん「不治の病で苦しみながらも」という、言わずもがなのことを略してのことだが。確かに子規の随筆や日記は、ユーモアありリズム感あり、疼痛さえ興味の対象にしてしまう好奇心あり、よく食べる…

花は嵐に誘われて (第52回)

遠藤周作の力作「王の挽歌」の主人公、大伴宗麟はキリスト教の布教者兼ゴマ商人のフランシスコ・ザビエルに会ったためかどうか知らないが、キリシタン大名になった。天正の少年使節もミニ・ザビエルのような服装をして大伴家から派遣されている。宗麟の弟は…

ありがたく、このたび大命  (第51回)

文庫本第四巻の「旅順総攻撃」によると、明治天皇は「人物の好み」があって、西郷隆盛、山岡鉄舟、乃木希典といった「木強者」がお好みであったらしい。木強者とは鹿児島の言葉で、「大胆な人」(広辞苑第六版)であるが、どうやら大迫尚敏や同じ章に出てく…

津軽海峡秋景色  (第50回)

こうして「坂の上の雲」や日露戦争の資料を読んでいると、当時の日本はずいぶんと時代の巡り合わせに恵まれたものだと思う。戦いに勝つためには戦意も軍備も不可欠だが、大和魂だけで大戦争に勝てるものでもない。 時代の巡りあわせということについて、ここ…

番付表の則遠  (第49回)

七変人の評は「坂の上の雲」において「子規の手記」と書かれているのだが、前回ご案内した高浜虚子の引用によると、「互イニ評論シタルモノナリ」とあるので、書き下したのは子規であるとしても複数人による総合評価であるらしい。 また、「七変人ノ順序ハ年…