正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧

饅頭山の戦い  (第111回)

「児玉がつねづね自分のあたまの内容をうたがっていることを知っている」黒木は、渡河作戦の重要さを改めて児玉源太郎に諭され、「おいをこけにするか」と卓子を叩いて怒った。ともあれ、全軍を引き連れて渡った。目の前に高粱畑が広がっていたらしい。コー…

仙台第二師団の門出  (第110回)

子供のころから知っている日露戦争の戦場といえば、旅順であり奉天であり対馬沖であった。映画になるのは、二〇三高地と日本海海戦であった。陸軍記念日と海軍記念日は、奉天と対馬沖における勝利の日であった。 小説「坂の上の雲」の貢献の一つは、これらの…

落合と首山堡  (第109回)

手元の文春文庫「坂の上の雲」第八巻は、最後の章「雨の坂」に続き、「あとがき」(一から六)がある。最後に、手ぐすね引いて出番を待っていた姿が目に浮かぶような巨星島田謹二による渾身の「解説」があるのだが、このあとがき集と解説の間に「落合と首山…

鵄  (第108回)

皇師遂撃長髄彦連戦不能取勝時忽然天陰而雨氷乃有金色霊鵄飛來止于皇弓之弭其鵄光曄莘条如流電 このブログも、煩悩の数だけ叩いて第108回。格調高く漢文で始めてみました。かくのごとく日本書紀は本邦初の史書なのに、漢語で書かれている。たぶん中国に読ん…

雁  (第107回)

最後の輪王寺宮は、後に赦されて伏見宮家に戻った。されどご本人は肩身が狭かったのか、海外留学を切望され、明治天皇の御許可を得た。宮様は明治天皇の叔父である。商船でドイツに渡った。出航時には同じ船に西園寺公望が乗船していたらしい。 6年余りの留…

彰義隊  (第106回)

うちの近所に徳川慶喜が引っ越してきたのは、後に明治元年と年号が改まる慶応四年のことだった。近所の話題が続きますが、あと二回の予定です。以下の大半は、吉村昭著「彰義隊」に拠る。彼の最後の歴史長編である。吉村さんも近所の東日暮里で生まれ育った…

婆の茶店  (第105回)

先を急ぐ前に、せっかく道灌山と御陰殿の地名を出したので、ごく一部だけ、高浜虚子著「子規居士と余」から引用する。子規は自分の事業すなわち俳句の分類ほか文学の研究を、虚子に継いでほしいと願った。しかし虚子は創作活動に専念したい。 その場面は、ま…

御陰殿の坂と橋  (第104回)

これからしばらく、上野や根岸、谷中や日暮里の地理や歴史のごく一部という地味な話題を続けます。くどくならないよう、正岡子規の著作や「坂の上の雲」によく出てくる地名・人名に所縁のあるものに絞ります。 上野の台地(昔の名は、双ヶ岡。ならびがおか)…

道灌山再掲  (第103回)

これからしばらく、近所の話が続きます。うちの近所とは、地名でいうと根岸、上野、谷中、日暮里など。行政区画でいうと東京都の台東区と荒川区。信号機に捕まらなければ、うちから子規庵まで5分とかからないし、「坂の上の雲」に登場する地名・人名の所縁に…

一本のろうそく  (第102回)

旅順から金州に戻った後の出来事は、やはり「青空文庫 従軍紀事」で読むのがいいので、詳しく転記するのはやめます。ルビもあるし、百年以上前の文章にしては読みやすい。司馬遼太郎ほか少なからずの人が、子規の散文も言文一致の運動に一役買ったという指摘…

春の草  (第101回)

1895年の4月、子規は15日に大連の柳樹屯に上陸して金州に一泊、翌16日から宿は再び海城丸となったが、19日に「小蒸汽船にて旅順へ赴けり」となった。旅順ではちょうど「大総督府附新聞記者」の一行も上陸してきて、一緒に彼らの記者宿所に入ったが、ここもま…

ほうかん  (第100回)

帝国陸海軍は、日露戦争の時期においてさえ、外国観戦武官の処遇をないがしろにして不当な報道をされ、国債の売れ行きに支障が出たという話が、「坂の上の雲」文庫本第四巻の「遼陽」に出てくる。観戦武官の中には、「われわれは豚のようにあつかわれた」と…