正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

海軍兵学校  (第201回)

先の大戦におけるアメリカ軍人の手記などを読んでいると、秋山兄弟と同じように、家が貧乏だったので軍隊に入ったという人が結構います。学が無いと一兵卒になるしかない。荒っぽく言えば、兵隊を増やしたければ、国民を貧乏にすればよい。

その点、秋山兄弟は幕末の知識階級たる武家の出身ですから、好古は陸軍士官学校、真之は海軍兵学校に入ることができた。職業軍人です。真之が進学するころには、好古は更に上の陸軍大学校を出て大尉になっています。大学校で騎兵は彼一人だった。


とはいえ、他の学生が金持ちの息子たちで、「兵学研究のための書物購入」に「湯水のように私費を使う」中、質素な暮らしの兄に学費を出してもらっている予備門の真之は、段々と息苦しくなってきたらしい。

学費が要らない陸軍士官学校か、海軍兵学校への転学を考えます。なぜ海軍を選んだのか、「坂の上の雲」には書かれていません。案外、兄が煙たくて別の道を選んだのかもしれない。同じ道を選ぶと上官になりますから。


その兄は、しかし反対しなかった。真之に軍人の素養をみたというのが司馬遼太郎の解釈です。願書の手続きまでしてくれた。合格したときは、秋山家は伊予水軍の末裔であると喜んでいる。「海軍の飯はうまいぞ」とも言った。海さんは洋食です。

真之は受検の際、自ら退路を断っている。すなわち、まだ合格どころか試験も終わっていないのに、予備門を中退した。事務員に「秋山さん、早まってはいけませんよ」とあきれられている。子規に置手紙をしたのは、合格してからでした。


海軍兵学校は、真之の在籍中に広島の江田島に移転しますが、入学時には東京の築地にありました。一学年上に広瀬武夫がおり、三学年上には鈴木貫太郎がいます。


下手な写真の出典:「江戸切絵図で歩く広重の大江戸名所百景散歩」(人文社)


築地の話題は次回のこととして、以下は余興ですが江戸時代(文久元年)の地図にも、右側海辺の築地に「御軍艦操練所」というものがあったようです。見づらいですが、地図の右上に佃島や石川島、下に浜御殿が見えます。その真ん中あたりです。

築地という地名そのものが、埋め立て地の意味です。図の中央に運河で囲まれた四角い土地があり、その中の右下に色濃く描かれているのが築地本願寺。この先を埋め立てたとのことです。


(おわり)



夏と云えば百日紅の巨木が近所で桜のように咲く。 (2023年8月1日撮影)







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