正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

2014-01-01から1年間の記事一覧

門下生  (第44回)

弘前の伊東家が東京の山県有朋に書を頼み込むにあたり、その仲立ちを工藤さんという代議士に依頼して、書が届いたらば和尚の今家が伊東家に送るという三年五年計画が整った。その矢先に山縣さんから工藤代議士に早速、取りにおいでとの仰せである。 これほど…

偉人堂の額  (第43回)

1970年代。そろそろ色気付いてきた中高生の私たちにとって、平凡パンチと週刊プレイボーイは、教科書が意地悪く避けて通る貴重な情報を収集するには欠かせない有り難き雑誌であった。 私はプレイボーイ派であったが、これは両者を読み比べた上で厳選した結果…

寅や、いっそお死に  (第42回)

吉田松陰は弘前に行ったことがある。松陰吉田寅次郎は、司馬作品でいうと跳ねっ返りの弟子、高杉晋作と入れ替わりで「世に棲む日日」の主役を務めてもいるのだが、「坂の上の雲」においてはすでに故人でありながら、乃木大将の兄弟子というお立場で、その名…

いろり端の軍神  (第41回)

繰り返しになるが、かつて勤め人をしていたころ、現在も同様かもしれないが、東北から東京に出て来た人たちが同僚に少なくなかった。そのうち特に仲が良かった4人のうち二人が福島出身で、残りの二人が弘前出身というのも何かの縁なのだろうか。 総じて彼ら…

救援という名の屈辱  (第40回)

学校で歴史の叙述の仕方には、編年体と列伝体という方法があると教わった。編年体とは時系列、クロノロジーである。「坂の上の雲」もおおむね編年体で、その期間は秋山真之が生まれてから秋山好古が死ぬまでだが、何といってもクライマックスが日露戦争であ…

一騎当千  (第39回)

折角の三連休なのに風邪をひきました。しかし話題は引き続き雪国です。これまで桑名や松山、青森や八甲田などの地名を出してきたが、今回は白河と弘前。これらには共通点がある。いずれも短期間だが、私が行ったことがある場所なのです。 白河は去年、関の跡…

啄木と老将軍  (第38回)

小説「坂の上の雲」を読み始めると、最初に出てくる人名は正岡子規である。例の十五万石の句が松山の紹介に使われている。子規にはトップ・バッターの資格がある。彼がいなければ、この小説は書かれなかったはずだ。では二番目の名は誰のものか? 秋山兄弟を…

遭難後  (第37回)

前回の続き。遭難の経緯や事故の詳細は、新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」と、前回に紹介した丸山泰明「凍える帝国」を是非お読みいただきたい。新田さんは元気象庁の技官で、登山家でもあったから本作品には現実味と迫力がある。ここでは遭難の詳細を論…

八甲田  (第36回)

数年前に何かのセミナーか研修の場で、隣席の人と自己紹介がてら雑談を交わしたことがある。引き締まった顔つきの少し年下の男であった。彼は旭川の出身ですと言った。私は大学卒業直後の旅行で北海道に行ったときのことを思い出した。 2月中旬で寒かった。…

桑名にいたころ  (第35回)

しばらくお休みしておりました。仕事関連の事情です。少しずつ再開するにあたり、これまで海軍と子規の話題が大半だったが、しばらく陸軍のことを書こうと思う。中心となるのは、前にも好きな場面だと記した覚えがあるが、烈風朔雪吹きすさぶ黒溝台の会戦で…

子規の「道灌山」  (第34回)

しばらく日露戦争ばかり話題にしていたので、この戦争の直前に亡くなった子規を久しぶりに話題にしたくなった。子規は散文の名手でもあり、司馬さんは明治以降の文体の手本の一つとなったと力説してやまない。 私には文体論はよく変わらない。でも時代を問わ…

垣花善の酒と結晶  (第33回)

久松の五人の漁師が浅瀬に乗り上げたのは、石垣島の伊原間という場所だったと書いてある。この地名は今もあって、石垣島の真ん中より少し北部にある島の幅が一番狭いところに位置する。ここから石垣島の中心街まで約30キロであった。海岸沿いに今も幹線道路…

宮古島発 石垣島行カヌー  (第32回)

文庫本第七章に出てくる海の男たちは、中学のころからの愛読書「水滸伝」に出てくる浪裏白跳の張順、九紋龍史進、阮の三兄弟といった物騒な連中を思い出させる。彼らも常日頃は大宋国という国家の一員として生業にいそしんでいるが、事ここに至ったとき一つ…

奥浜牛の印鑑  (第31回)

この逸話で3回もブログを書いたのには私なりの理由もある。百年ほど前に奥浜牛が急報を胸に駆け抜けた道を、ほぼ間違いなく、そうとは知らずに私も歩いている。前々回にも触れた台風のときに、一泊二日で宮古島に立ち寄った際のことである。2010年ごろだった…

海の向こうから戦がやってきた  (第30回)

奥浜牛の故郷、粟国島の人々は出稼ぎに出る人が多くて進取の気性に富んでおり、彼もその一人であったと作者は書く。まだ船主になるほど裕福ではなく借り船だったというから、農業でいうと小作農のようなものか。当時の彼は那覇に住み、山原船に雑貨を積んで…

宮古島  (第29回)

沖縄が好きで十回以上は旅行に行っている。必ず夏。主な目的は珊瑚の海で泳ぐことや釣り、そして料理とオリオン・ビールに泡盛である。本島はいつも飛行機を乗り換えるだけで、宿泊したことがあるのは石垣島、久米島、宮古島。その周囲の小さな島々に遊びに…

幸徳秋水  (第28回)

軍艦の話ばかり話題にしていると軍国主義者かと思われては困るので、今日は正反対のテーマを取り上げる。愛読書の一つに丸谷才一著「文章読本」(中公文庫)がある。 その第十章には、文章に緒論・本論・結論と並び立てなくてよいという主張の実例として、幸…

春日  (第27回)

今日は少しややこしい話題から始めます。文庫本でいうと第三巻と第八巻の巻末に、それぞれ連合艦隊の幹部名や軍艦名のリストが載っている。前者は1904年2月の日露開戦時、後者は1905年5月の日本海海戦時である。1年3か月しか経っていないのに何故か。 編成上…

日進  (第26回)

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 阿倍仲麻呂 今回は格調高く始めてみました。この和歌は百人一首の中で私が一番好きな一首です。ただし正直なところ、純粋に文学作品として好きなのではなく、作者の人生がドラマチックだからだ。前回触…

つらい軍艦  (第25回)

文庫本第八巻の「運命の海」という章は、日本海海戦において両軍が相手の存在地点を確認し、日本の艦隊が敵前回頭して、露国艦隊が発砲を開始する場面から始まる。要は開戦だ。この途中に「春日、日進というのは、つらい軍艦であった。」という一文がある。 …

がらっぱち  (第24回)

幼少時の私は病弱で何故かすぐに熱を出し、幼稚園や小学校を数えきれないほど休んだ。あともう少しで進級できないほど欠席日数が多かった年もある。そういうときは仕方がないので寝転がって家にある本を読む。漫画は滅多に買ってもらえないため、いきおい祖…

若御前  (第23回)

前回の続きです。私が小中学生だった頃の日露戦争の代表的な陸軍の激戦地といえば、旅順・奉天と相場が決まっていて教科書にもそう書いてあり、無論そのこと自体に異論はない。 それでも一読者としての私にとって「坂の上の雲」における陸軍の登場場面のクラ…

鉄幹と晶子  (第22回)

今回はちょっと趣向を変えて、与謝野さんちの話題。もうずいぶん前のことで誰の文章だったか忘れてしまったのだが、その人がある日、与謝野家に伺ったところ、鉄幹先生が自宅の庭で、背中を丸めてしゃがみ込んでいる。 客が近寄ってみたところ、鉄幹は小さな…

無線機  (第21回)

今回は山本夏彦著「最後の波の音」の引用から始める。今日は引用ばっかりなのだが、昔の話をしているので仕方がない。この件は司馬遼太郎「明治という国家」にも出て来るので、ご存じの方も多かろうかと思う。引用、始め。 「これ以上の恋の手紙は稀だろう。…

愚駄仏庵  (第20回)

前回の続き。子規は看病に来てくれた虚子に、自分の事業の後継者になれと口説いたらしい。これと同様の場面は後にもでてくるのだが、どうやらここで虚子は快諾せず、子規は子規であきらめなかったということだろうか。 ようやく子規も小康状態になって退院し…

須磨  (第19回)

文庫本第二巻の「須磨の灯」は、どうやら最初は子規の「病」、続いて虚子の「子規居士と余」、さらに漱石の日記が主な種本になっているようだ。子規は念願の日清戦争の従軍記者になった。陸羯南社長は子規の体調を慮って渡航を許さなかったのだが、記者団に…

鉄砲鍛冶  (第18回)

拙宅の近くに上野の寛永寺と谷中の天王寺の墓地および都立の谷中霊園がある。互いに隣接していて境界線も定かではないため、ひっくるめて谷中墓地と呼んでいる。解放的で広々としているため、墓場らしき暗さが無く、私のお気に入りの散歩コースになっている…

船大工  (第17回)

文庫本の第二巻に「米西戦争」という章がある。米国駐在中の秋山真之がサンチャゴ湾の閉鎖作戦を勉強していたころのことだ。この時期に小村寿太郎がアメリカ大使として着任する。この人は「坂の上の雲」の至ることろに出てくる。日清戦争が始まるころの北京…

緑馬事件  (第16回)

このタイトルを見ただけで笑えるお人がいるならば、勝手ながら一方的に同志と呼ぼう。秋山好古が丹精込めて作り上げた近代日本初の騎兵隊も、いよいよデビュー戦を迎えるときが来た。文庫本第二巻の「日清戦争」の章に多少詳しくそれまでの経緯が描かれてお…

山地忠七  (第15回)

幕末のころ土佐の侍に山地忠七という若者がおった。殿の身の回りのお世話係を命じられ、参勤交代で江戸で働いていたころ、田舎からの手紙で母が重病であることを知った。忠七は朴訥な父と孟母のごとく厳しい母の教育を受けて育った。 例えば子供のころ鬼ごっ…