正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

2017-11-01から1ヶ月間の記事一覧

第二回総攻撃の始まり  (第154回)

第二回の旅順総攻撃は、1904年9月下旬の前半と、同年10月下旬の後半にわかれる。第一回総攻撃から3週間ほどの間が空いたのは、一因として「正攻法」に変えたためだろう。すなわち、要塞近くまで坑道を掘り、歩兵がそこまで前進できるようにする。また、いき…

もはや災害  (第153回)

1904年の9月から10月にかけて行われた第二回旅順総攻撃は、先述のとおり、数え方によっては二回目と三回目とも呼べなくはない。中断して再開したからだ。 その理由は砲弾が尽きたからだと、どこかで読んだ覚えがあるのだが、損害が酷く中断せざるを得なかっ…

誰が言い出したのか  (第152回)

「坂の上の雲」文庫本第六巻の「黄塵」の章に、乃木司令官・伊地知参謀長の人事が決まり、1904年7月に大連に上陸した児玉が乃木と会う段階で、「伊地知が乃木を不幸にした」とまで作者は言い切り、その例として次の一節が続く。たぶん、これが本作における二…

海抜203メートル  (第151回)

かねがね不思議に思ってきたのですが、なぜ二〇三高地には「盤竜山」のような固有名詞が無く、標高だけの表示になっていたのかという、この人生に関係はなさそうですが、気になる点です。以下、例によって目の醒めるような結論は出ませんが、調べた記録は残…

東鶏冠山と盤竜山  (第150回)

旅順攻囲戦の激戦地というと、すっかり有名になっている二〇三高地を思い浮かべる人が多いと推察しますが、私にとっては、東鶏冠山という名を見かけただけで気が滅入るほど、ここでの戦闘もすさまじかったという印象がある。 その理由の一つは、櫻井忠温著「…

旅順総攻撃の始まり  (第149回)

旅順要塞の攻囲戦が始まったのは、1904年8月19日の乃木軍司令官による総攻撃命令からだ。この日付は、以前に触れたように大本営側の意向が働いており、記者会見まで準備していたらしいのだが、ともかく日本軍全体が急いでいる。 バルチック艦隊の来襲は、早…

ちょっと脱線  (第148回)

旅順の記事を一休みして、追加報告のようなもの。先日、用事で仙台に参りました。少し余りの時間ができたので、午後遅く仙台城址に行った。仙台は何回か行ったことがあるが、ここは名高い伊達政宗公の像があるのに初めてだ。 丘の頂上にそれはある。日曜日と…

明治150年  (第147回)

感想文がこれから旅順総攻撃の段階に入るにあたり、その前に、読書の際に念頭に置いておきたいことを、できるだけ整理したい。なぜ、司馬遼太郎はこれほどまでに乃木・伊地知に厳しいのだろうか。 司馬さんは着目した人物、好みの人物について何度でも書き、…

高崎山  (第146回)

当初は固有名詞がなく、二〇三高地と同様に海抜を示す「一六四高地」と呼ばれていた小さな山は、「高崎の歩兵第十五連隊がおびただしい出血の挙句に奪取した」(「殉死」)ため、高崎山と名付けられた。 前回も引用した「坂の上の雲」文庫本第五巻の巻末地図…