正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

花は嵐に誘われて (第52回)

 遠藤周作の力作「王の挽歌」の主人公、大伴宗麟はキリスト教の布教者兼ゴマ商人のフランシスコ・ザビエルに会ったためかどうか知らないが、キリシタン大名になった。天正の少年使節もミニ・ザビエルのような服装をして大伴家から派遣されている。宗麟の弟は経緯があって、後に長州と呼ばれる長門と周防の国でがんばっていた守護大名の大内家に縁組されて跡継ぎとなり、大内義家と名乗った。

 戦国の世である。絵にかいたような下剋上でのし上がって来た毛利元就に騙され、義長は自刃に追い込まれた。辞世の句は「誘ふとて何か恨みん時きては嵐のほかに花もこそ散れ」。むべ山風が吹かなくても花散ることがある。義長は下関の功山寺に葬られた。後年、毛利家の家臣である高杉晋作という突風のような男が、ここで藩政革新の反乱軍を起こすべく挙兵した。

 
 長州男児の心意気は巡り巡って乃木希典を第三軍司令に任じ、旅順要塞攻撃の最高責任者とした。大迫少将の第七師団が壊滅的な損害を被った翌日の1904年12月1日、児玉源太郎の到着を受けて日本軍はロシア側に休戦を申し込んだとある。遺体収容が主目的で、一戸さんが茶菓子を頂戴したのも、このときのことだろう。ロシア側は要塞の手入れもできるので大歓迎で4日もくれた。

 この間に児玉を交えての作戦会議が開かれ、次に二十八サンチほか重砲の移設工事が行われている。12月3日、児玉は休戦中の前線に出て、二〇三高地の山腹に日本軍が掘った壕が、兵士の遺体で埋まってしまっているのを見た。


 その帰路、高崎山の第七師団の司令部にいくと、大迫師団長は壕の中で体を小さくしながら児玉を迎え、「閣下、私の師団にもう一度攻撃をやらせていただけませんか」と頼んだ。ここでくじけては、津軽海峡にも北海道にも顔向けができない。

 大迫は「よほど疲労が深い様子で、感情の抑制が効かなくなっているらしく、ただそういうだけでこの老人は涙声になっていた」と小説は語る。児玉は許した。しかし千人に減ってしまっては足りなかろう。たぶん増員して再編成したのだろう。陸軍も海軍も、戦場では臨機応変に組織変更を行い、大隊や軍艦などのやりとりをしながら戦っている。
 
 許された以上、第七師団は本当に二〇三高地に向かわねばならない。休戦が開けた12月5日の午前9時に出撃、文庫本第五巻の「二〇三高地」によると、齊藤少将は西南角、吉田少将は東北角を攻めた。古い写真で見ても分かるが、二〇三高地ツイン・ピークスなのである。二人の名は後段でフルネームが示されており、齊藤太郎と吉田清一、大迫第七師団が持つ二つの歩兵旅団の旅団長である。

 ロシアも頑強に抗戦したそうだが、6千2百人にのぼる日本兵の戦死者を出した二〇三高地は、西南角が1時間20分、東北角が30分で落ちた。この速さは、一因として児玉が「そこをうまくやれ」と命じた砲弾が、第七師団の頭上を越えて露軍陣地を攻め抜いたからだろう。そこから旅順港が見えるかと電話した児玉は、期待通りの返事を得ている。


 北海道の兵は前評判を裏切ることなく、最後に死力を尽くして目的を果たした。さらに大迫師団長の名誉のため書き添えれば、彼はここで力尽きたわけではなく、引き続き第七師団を率いて乃木将軍とともに北上し、奉天の戦いに至る最終決戦に加わった。両名は西南の役で共に熊本で戦って以来の長い戦友なのである。


 では最後に、第四巻に戻り、戦後に乃木と大迫が残した詩に触れる。この二人は大勢の部下だけではなく自らの息子もこの戦場で亡くした。しかし大迫は司馬遼太郎によると、「乃木希典と同じ悲劇の人でありながら、人柄に明暗の差があった」と書く。乃木の漢詩は、「愧ず我何の顔あってか父老を看ん」。幸徳秋水は兵士に向かって、その家族を思いやりつつ、帰って来なければ君達の事業は俺が継ぐと言った。乃木さんは俯いている。


 大迫は和歌である。どうして単なる野武士ではない。宮仕えで勉強したかな。「携えし花は嵐に誘われてたもとに残る家土産もなし」。家土産は「いえづと」とルビが振ってある。万葉の時代からある古い言葉で、うちに持ち帰るお土産のことである。旭川から携えて来た花の命は、ほとんどが戦乱で散った。前半は新古今調に流るるも、続きは感情をよく写したりとでも子規に見せたら言うだろうか。

 後年、大迫尚敏は突然、他界した乃木の後任として学習院の院長先生になった。明治天皇も、もういない。いま目白にある学習院は意外と解放的であり、徒歩で自由に出入りできるので何回かキャンパス内を散歩したことがある。一歳上の仕事仲間に学習院大学の卒業生がいて、「なるひと」はいつも女子学生に囲まれて大変そうだったよと述懐してみえた。いまは東宮になられて更に大変そうである。



(この稿おわり)




逆光の白梅  (2015年3月20日撮影)
















































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