正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

雨の坂  (第7回)

 小説「坂の上の雲」の最終章は「雨の坂」という題名である。作品名と比べ、何と淋しい響きであることか。正岡子規の家と墓に赴いた秋山真之が、田端の坂道で雨に降られたことに由来している。

 この小説は秋山兄弟の伝記としての側面を持っていることもあり、最後の最後は真之と好古の訃報で終わっている。だがその直前は如何にも文学的な情緒あふれる文体で描かれた真之の墓参で締めくくられているのだ。


 あとがきには著者の本音が、本文とは違う形で出ることが多いように思う。特に「坂の上の雲」のあとがきは、その内容といい分量といい重量級である。いつか、あとがきの感想文という妙なものも書くつもりでいる。

 その「あとがき 一」において作者は、「この長い物語は、その日本史上類のない楽天家たちの物語である。」と自ら書評を遺している。楽天家とは何か。うちの広辞苑第六版によると、まず【楽天】とは、(1)人生を楽観すること。(2)自分の境遇に安んじてあくせくしないこと。プロ野球団の名前はまだ無い。


 この小説の主要登場人物のうち、自分の境遇に安んじている人物などおらん。したがって(1)の人生を楽しく観る人の意であろうか。続いて【楽天家】の説明では、楽天的な人、のんきな人とある。どうも今日の広辞苑は冴えが無い。私には元いじわるばあさん兼東京都知事青島幸男が作詞し、植木等が歌った歌謡曲の一節の方が馴染みやすい。

 いわく「見ろよ、青い空、白い雲。そのうち何とかなるだろう。」という。先ほどのあとがき「この長い物語は...」で始まる文と同じ段落の最後に司馬さんはこう書いている。「のぼっていく坂の上の天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう」。よく似ている。


 そのうち何とかなるだろうというのが楽天主義であるならば、司馬遼太郎が本作品や「殉死」で描いた将としての乃木は、おそるべき楽天家と呼べるかもしれない。ともあれ、これら一連の青い空と白い雲が表す輝きと比べて、雨の坂を終章に選んだ作者の意図はどのようなものか。なぜ日本海海戦か、せめて凱旋の観艦式で筆を置かなかったのか。

 来るべき時代を暗示しているというのが無難な解釈だろう。作品中にも随所に同じような趣旨のことが書かれている。私なりに敢えてそれに加えれば、来るべき真之の精神状態の変化もあるだろう。さらに言えば、作者は最後にもう一度、子規の話題を出したかったのだと思う。


 これについても詳しくは「あとがき」に書いてあるので、いずれまた触れる。ここではごく簡単に要約すると、司馬さんは「子規好き」であるが故にのみ、彼と古くからの仲間だった真之に興味を抱いて調べ始め、兄の好古とともに日露戦争で果たした役割について書かずにいられなくなった。ご尊父の書棚に正岡子規徳富蘆花の書籍が並んでいなかったら、「坂の上の雲」は世に出なかっただろう。

 この小説の第一章は「春や昔」という題名であり、故郷の伊予は松山をうたった子規の句から採られたものだ。それこそ、のんびりとした「あでやかすぎる」ほどの風情であり、「赤ン坊をお寺へやってはいやぞな」という信さんの声が聞こえてくるようだ。

 
 なお、文庫本第一巻の「海軍兵学校」の章には、「個人の栄達が国家の利益に合致するという点でたれひとり疑わぬ時代であり、この点では、日本の歴史の中でもめずらしい時期だったといえる。」との記述もあり、これが「坂の上の雲」における楽天主義の別表現なのだろう。ところが、この時期の好古は栄達をあきらめてフランスに行くことになった...。

 さて、おそらく小説全体の構造を意識して対比的に末尾に置かれた「雨の坂」の最後の場面は、いわば将来の真之と今は無き子規が主人公であると言っても、ひどい間違いではあるまい。それは、こんな一節から始まっている。「一つの情景がある」。明治三十五年十月二十五日と日付まで分かっている。真之は暗いうちに外に出た。




(この稿おわり)








子規庵





その上空の午後遅く (2014年7月30日撮影)





 春や昔十五万石の城下かな  − 子規































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