正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

火の国  (第87回)

 熊本の地震で被災された皆さまにお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。しかも、最初の震度7が前震と言われているほど、もっと大きな揺れが今朝、未明にあった。震源地が少し離れているようで、私にはどちらも本震のように感じられる。これから徐々に終息の方向に向かうのだろうか。阿蘇山の噴火も怖い。

 4年前に天草への旅の帰途、立ち寄った熊本城が一部崩れたという報道もショックだった。あの立派な石垣が...。清正公の天守閣が西南の役で焼失した話は「翔ぶが如く」にも出て来た。今の天守閣は1960年の再建だそうで、私と同い年である。お城も大事だ。しかし、まずは救けを必要としている皆さんに一刻も早く救助の手が届くよう願う。

 
2012年2月撮影。


 最初の震度7が起きた日の昼休み、偶然だが私は熊本の地名が出てくる短文を読んでいた。夏目漱石の「子規の畫」である。この文と、以前引用した幸徳秋水の記事は、いずれも丸谷才一著「文章読本」で初めて読んだ。いかにも丸谷さんらしく旧仮名遣いがそのままになっており、「畫」とは「画」(ここでは正岡子規が描いた絵)である。以下、新仮名に改めつつ引用します。

 明治四十一年に出版されたと紹介されており、文中に子規の「没後殆ど十年」とあるから、ずいぶん時が経ってから旧友を思い出している。これを再読していた理由は、小欄も戦争関係のテーマが続いていたので、そろそろ子規の話題に戻ろうと思い、ついては彼の周囲にいた人たちのことを書こうかと思ったからだ。


 その全文はネットでも読めるので詳しくは触れない。趣旨は子規が送ってよこした画が「拙」であるという手厳しいものだが、これを読んで漱石が子規の画を下手だと評しているだけという短絡的な感想を持つのには賛成しない。子規は人柄も学識も「拙」とは全く無縁の男だったと締めくくりつつ、この画だけが淋しいと漱石は語る。

 下手な理由は、子規が一緒に送って来た手紙に書かれていて、東菊の画が冴えないものであることは、流石の子規も認めつつ、「これはしぼみかけたところだと思いたまえ。不手いのは病気のせいだと思いたまえ。嘘だと思わば肱を突いて書いてみたまえ。」という注釈があるのだという。もう失くしたと思っていた子規の手紙が、しまい込んでいた画と一緒に出て来たのだ。


 病床でひじを突きながら書き物をしている子規の姿は、自画像もあるし(こういう自画像も、世にそう多くはあるまい)、いずれ触れるが画家の絵もある。もう座ることすらできないのだ。そしてこの東菊の拙い絵は、およそだが描いた時期が分かる。

 漱石によると「彼はこの絵に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰りくるがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。」とその由来を述べている。火の国、肥後熊本、阿蘇山のくに。子規の夢はエベレストの雪も踏んだ。熊本はもっと近いが、彼は行くことができない。最後の「がね」は古語で、「帰って来るだろうから」というような意味。切ない。


 拙宅の漱石の文庫本巻末にある年譜によると、漱石帝国大学の大学院に所属しつつ高等師範学校で英悟の嘱託教員をしていたそうなのだが、1895年に松山中学に赴任し、日清戦争から病人になって戻って来た子規と一時期、同居していたことはすでに書いた。

 そして翌1896年の4月に、熊本の第五高等学校に転任している。松山での苦労は、その程度は知らないが「坊ちゃん」に反映されているだろう。決して愉快なだけの小説ではない。一年しか居なかったのも事情がありそうだ。そして、熊本には水が合ったのか、1900年まで4年ほど滞在した。この年の6月にイギリス留学を命じられたのだ。熊本で結婚し、長女をもうけている。


 この時期の子規は、病状が急激に悪化したころだ。95年にあれほどの喀血をしながら、96年には奈良を歩いて柿など食っている。その旅から東京に戻って来たときの子規は、駅まで迎えに出た虚子によると、顔色が悪く脚を引きずっていたという。翌96年にリューマチではなく、カリエスであるとの診断が下った。

 子規庵のサイトによると、97年4月20日に「病状悪化、医者に談話を禁じられる」。この警告が守られた気配はない。本人はそれどころではないのだ。そして、1899年の秋に、初めて水彩画をかいた(それまでは墨絵だけだったのだろう)というから、漱石が東菊に「わずかに三色しか使っていない」と書いているところから見て、これ以降の作品なのだろう。


 
 1900年の8月には、子規庵サイトに「ロンドンに留学が決まった漱石が、寺田寅彦と来訪。」とあり、年譜では翌9月に横浜からイギリスに向かう船に乗っている。途中でパリに寄り道し、万博やエッフェル塔を見物している。「坂の上の雲」文庫本第二巻の「子規庵」という章によれば、出航日は9月8日、「子規はむろん、送れなかった」。

 そして「ホトトギス」に、「とても今度はと独り悲しく相成り申し候」と寄稿したとある。「とても今度は」というのは、もう再会するのは無理だろうという意味だろう。漱石が帰国したのは、子規が他界して4か月ほど後のこと。間に合わなかった。


 この巻の「須磨の灯」には、子規と漱石が親しくなった経緯が描かれている。お互い寄席好きだったからであり、文学とは直接関係ない。司馬さんは、「その後、子規は漱石をもって最良の友人とした様子がある。」と考えている。秋山真之も「剛友」であったが、故郷の違う「畏友」夏目金之助こそ子規の一番の友だったという見解だ。


 子規は漱石が呆れるほどたくさんの手紙を書いて寄越した。漱石はロンドンでも読むだに辛い手紙を子規から受け取っているのだが、その件は別の機会に譲ろう。

 この先しばらくは、子規の他の友人たちを題材にする。その全員をじっくり研究している余裕はなく、それより私の記憶力が収集のつかない状況になる前に、いま知っていることや感じていることを整理しておきたい。





(この稿おわり)




小石川植物館の新緑  (2016年4月9日撮影)




































































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